第一回 → 黄巾賊(一)
前回はこちら → 白芙蓉(びやくふよう)(一)
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「こら。貴様は茶を秘(かく)してゐるといふぢやないか。その茶壺(チヤコ)をこれへ出してしまえ」
馬元義も責め、李朱氾も共に、劉備のきゝ腕を、捻抑(ねぢおさ)へながら脅した。
「出さぬと、ぶつた斬るぞ。今もいつた通り、張角良師の御好物だが、良師の御威勢でさへ、滅多に手にはいらぬ程の物だ。貴様のやうな下民などが、茶を持つたところで、何となるものか。われわれの手を経て、良師へ献納してしまへ」
劉備は、云ひ遁(のが)れの利かないことを、はやくも観念した。然(しか)し、故郷(くに)の母が、いかにそれを楽しみに待つてゐるかを思ふと、自分の生命(いのち)を求められたより辛かつた。
(何とか、ここを遁れる工夫はないものか)
と猶(なほ)、未練をもつて、両手の痛みをこらへてゐると、李朱氾の靴は、気早に劉備の腰を蹴とばして、
「啞(おし)か、つんぼか、汝(おの)れは」
と、罵つた。
そして、蹌(よろ)めく劉備の襟がみを、摑みもどして、
「あれに、血に飢ゑている五十の部下が此方(こつち)を見て、餌(え)を欲しがつてゐるのが、眼に見えないか。返辞をしろ」
と、威猛高(ゐたけだか)に云つた。
劉備は二人の土足の前へ、さうしてひれ伏した儘、まだ、母の歓びを売つて、この場を助かる気持になれないでゐたが、ふと、眼を上げると、寺門の陰に佇んで、此方(こなた)を覗いてゐた最前の老僧が
(物など惜(をし)むことはない。求める物は、何でも与へてしまへ、与へてしまへ)
と、手真似を以(もつ)て、頻(しき)りと彼の善処を促してゐた。
劉備もすぐ
(さうだ。この身体を傷つけたら、母にも大不孝となる)
と思つて、心をきめたが、それでもまだ懐中の茶壺は出さなかつた。腰に佩(は)いてゐる剣の帯革を解いて、
「これこそは、父の遺物(かたみ)ですから、自分の生命(いのち)の次の物ですが、これを献上します。ですから、茶だけは見のがして下さい」
と哀願した。
すると、馬元義は
「おう、その剣は、俺がさつきから眼をつけてゐたのだ。貰つておいてやる」
と奪上(とりあ)げて、
「茶の事は、俺は知らん」
と、空嘯(そらうそぶ)いた。
李朱氾は、前にも増して怒り出して、一方へ剣を渡して、俺になぜ茶壺を渡さないかと責めた。
劉備は、やむなく、肌深く持っていた錫の小壺(セウコ)まで出してしまつた。李は、宝珠を得たやうに、両掌(りやうて)を捧げて、
「これだ、これだ。洛陽の銘葉に違ひない。さだめし良師がお歓びになるだらう」
と、云つた。
賊の小隊はすぐ先へ出発する豫定らしかつたが、ひとりの物見が来て、ここから十里ほどの先の河べりに、県の吏軍が約五百ほど野陣を張り、われ[われ]を捜索してゐるらしいといふ報告を齎(もたら)した。で、遽(にはか)に、
「では、今夜はこゝへ泊れ」
となつて、約五十の黄巾賊は、そのまゝ寺を宿舎にして、携帯の糧嚢(りやうなう)を解きはじめた。
夕方の炊事の混雑を窺(うかが)つて、劉備は今こそ逃げるによい機(しお)と、薄暮の門を、そつと外へ踏み出しかけた。
「おい。何処へ行く」
賊哨兵は、見つけると忽(たちま)ち、大勢して彼を包囲し、奥にゐる馬元義と李朱氾へすぐ知らせた。
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次回 → 白芙蓉(びやくふよう)(三)(2023年9月11日(月)18時配信)
(なお、日曜日については夕刊が休刊のため、配信はありません。)