第一回 → 黄巾賊(一)
前回はこちら → 白芙蓉(二)
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劉備は縛(いまし)められて、斎堂の丸柱にくゝり付けられた。
そこは床に瓦を敷き詰め、太い丸柱と、小さい窓しかない石室(いしむろ)だつた。
「やい劉。貴様は、おれの眼を掠(かす)めて、逃げようとしたさうだな。察する所、てめえは官の密偵だらう。いゝや違えねえ。きつと県軍のまはし者だ。——今夜、十里程先まで、県軍が来て野陣を張つてゐるさうだから、それへ聯絡を取る為に、脱(ぬ)け出さうとしたのだらう」
馬元義と李朱氾は、変る[変る]に来て、彼を拷問した。
「——道理で、貴様の面がまへは、凡者(ただもの)でないはずだ。県軍のまはし者でなければ、洛陽の直属の隠密か。いづれにしても、官人だらう汝(てめえ)は。——さ、泥を吐け。云はねば、痛ひ思ひをするだけだぞ」
仕舞(しまひ)には、馬と李と、二人がゝりで、劉を蹴つて罵つた。
劉は一口も物を云はなかつた。かうなつたからには、天命にまかせようと観念してゐるふうだつた。
「こりゃひと筋縄では口をあかんぞ」
李は、持て餘し気味に、馬へ向つてかう提議した。
「いづれ明日の早暁、俺はこゝを出発して、張角良師の総帥府へ参り、例の茶壺を献上かた[がた]良師の御機嫌伺ひに出るつもりだが、その折、此奴(こいつ)も引つ立てゝ行つて、大方軍本部の軍法会議にさし廻してみたら何(ど)うだらう。思ひがけない拾ひ物になるかもしれぬぜ」
よからうと、馬も同意だ。
斎堂の扉(と)は、固く閉められてしまつた。夜が更けると、たゞ一つの高い窓から、今夜も銀河の秋天が冴えて見える。けれど到底、そこから遁(のが)れ出る工夫はない。
何処かで、馬の嘶きがする。官の県軍が攻めて来たのならよいが——と劉備は、望みをつないだが、それは物見から帰つて来た二、三の賊兵らしく、後は寂(セキ)として、物音もなかつた。
「母へ孝養を努めようとして、かへつて大不孝の子となつてしまつた。死ぬる身は惜(をし)くもないが、老母の餘生を悲しませ、不孝の屍を野に曝すのは悲しい事だ」
劉備は、星を仰いで嘆いた。そして、孝行するにも、身に不相応な望みを持つたのが悪かつたと悔いた。
賊府へ曳(ひ)かれて、人中で生恥曝して殺されるよりは、いつそ、ここで、一思ひに死なん乎(か)——と考へた。
死ぬにも、身に剣はなかつた。柱に頭を打ちつけて憤死する乎。舌を嚙んで星夜を睨(ね)めつけながら呪死せん乎。
劉備は、悶々と、迷つた。
——すると彼の眸の前に一筋の縄が下がつて来た。それは神の意志によつて降(さ)がつて来るやうに高い切窓の口から石の壁に伝はつてスルスルと垂れて来たのである。
「……あ?」
人影も何も見えない、たゞ四角な星空があるだけだつた。
劉備は、身を起しかけた。然(しか)しすぐ無益である事を知つた。身は縛(いまし)めにかゝつてゐる、この縄目の解けない以上、救ひ手がそこまで来てゐても、縋り付く術はない。
「……ああ、誰だらう?」
誰か、窓の下へ、救ひに来てゐる。外で自分を待つて居てくれる者がある。劉備は、猶更もがいた。
と、——彼の行動が遅いので、早くしろと促すやうに、外の者は焦(じ)れてゐるのであろう。高窓から垂れてゐる縄が左右に動いた。そして縄の端に結(ゆ)ひつけてあつた短剣が、白い魚のように、コト[コト]と瓦の床を打つて躍つた。
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次回 → 白芙蓉(四)(2023年9月12日(火)18時配信)