第一回 → 黄巾賊(一)
前回はこちら → 白芙蓉(三)
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足の先で、短剣を寄せた。そして漸(やうや)く、それを手にして、自身の縄目を断ち切ると、劉備は、窓の下に立つた。
(早く。早く)
と云はんばかりに、無言の縄は外から意志を伝へて、揺れうごいてゐる。
劉備は、それに摑まつた。石壁に足をかけて、窓から外を見た。
「……オゝ」
外に佇んでゐたのは、昼間、たゞ独りで曲彔(キヨクロク)に腰かけてゐたあの老僧だ。骨と皮ばかりのやうな彼の細い影であつた。
「——今だよ」
その細い手が麾(さしまね)く。
劉備はすぐ地上へ跳び降りた。待つてゐた老僧は、彼の身を抱へるやうにして、物も云はず馳け出した。
寺の裏に、疎林があつた。樹(こ)の間の細道さへ、銀河の秋は仄明(ほのあか)るい。
「老僧、老僧。いつたい何(ど)つちへ逃げるんですか」
「まだ、逃げるのぢやない」
「では、何(ど)うするんです」
「あの塔まで行つてもらふのぢやよ」
走りながら、老僧は指さした。
見ると成程、疎林の奥に、疎林の梢(こづゑ)よりも、高く聳えてゐる古い塔がある。老僧は、慌たゞしく古塔の扉(と)をひらいて中へ隠れた。そしてあんなに急(せ)いたのに、なか[なか]出て来なかつた。
「どうしたのだらう?」
劉備は気を揉んでゐた。そして賊兵が追つて来はしまいかと、彼方此方見まはしてゐると、軈(やが)て
「青年、青年」
小声で呼びながら、塔の中から老僧は何か曳(ひ)きながら出て来た。
「おや?」
劉備は眼をみはつた。老僧が引つ張つてゐるのは駒の手綱だつた。銀毛のやうな美しい白馬が曳(ひ)かれ出したのである。
いや、いや、白馬の毛並の見事さや、背の鞍の華麗などはまだ云ふも愚(おろか)であつた。その駒に続いて、後ろから歩みも嫋(なよや)かに、世間の風にも怖れるものゝやうに、楚々と姿を現した美人がある。眉の麗しさ、耳の白さ、又、眼に含む愁ひの悩ましいばかりなど、思ひがけぬ場合ではあり、星夜の光に見るせゐか、この世の人とも思へぬのであつた。
「青年。わしがお前を助けて上げた事を、恩としてくれるなら、逃げるついでに、この阿嬢(おぢやう)さまを連れて、こゝから十里ほど北へ向つた所の河べりに陣してゐる県軍の隊まで、届けて上げてくれぬか。わづか十里ぢや、この白馬に鞭打てば——」
老僧のことばに、劉備は、否やもなく、はいと答へるべきであるが、その任務よりも、届ける人の餘りに美し過ぎるので、何となく躊躇(ためら)はれた。
老僧は、彼のためらひを、どう解釈したか。
「さうだ、氏素性も知れない婦人をと、疑ぐつてをるのぢやらうが、心配するな。このお方は、つい先頃まで、この地方の県城を預かつてをられた領主の阿嬢(おぢやう)さまぢや。黄巾賊の乱入に遭つて、県城は焼かれ、御領主は殺され、家来は四散し、こゝらの寺院さへ、あの通りに成り果てたが、その乱軍の中から迷うてござつた阿嬢さまを、実はわしが、こゝの塔へそつと匿(かくま)うて——」
と、老僧の眼がふと、古塔の頂(いただ)きを見上げた時、疎林を渡る秋風の外(ほか)に、遽(にはか)に、人の跫音や馬の嘶(いなな)きが聞え出した。
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次回 → 白芙蓉(五)(2023年9月13日(水)18時配信)