第一回 → 黄巾賊(一)
前回はこちら → 白芙蓉(四)
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劉備が、眼をくばると、
「いや、動かぬがよい。暫くは、かへつてこゝに、凝(じつ)としてゐたはうが……」
と、老僧が彼の袖を捉へ、そんな危急の中に猶、語りつゞけた。
県の城長の娘は、名を芙蓉といい姓は鴻といふ事。又、今夜近くの河畔に来て宿陣してゐる県軍は、きつと先に四散した城長の家臣が、残兵を集めて、黄巾賊へ報復を計つてゐるに違いないといふ事。
だから、芙蓉の身を、そこまで届けてくれさへすれば、後は以前の家来達が守護してくれる——白馬の背へ二人して騎(の)つて、抜け道から一気に逃げのびて行くやうに——と、禱(いの)るやうに云ふのだつた。
「承知しました」
劉備は、勇気を示して答へた。
「けれど和上、あなたは何(ど)うしますか」
「わしかの」
「さうです。私たちを逃がしたと賊に知られたら、和上の身は、たゞでは済まないでせう」
「案じる事はない。生きてゐたとて、この先幾年生きてゐられよう。ましてこの十数日は、草の根や蟲など食うて、露命をつないでゐた儚(はかな)い身ぢや。それも鴻家の阿嬢(おむすめ)を助けて上げたい一心だけで生きてゐたが——今は、その事も、頼む者に頼み果てたし、貴郎(あなた)といふ者をこの世に見出したので、思ひ残りは少しもない」
老僧はさう云ひ終ると、風の如く、塔の中へ影をかくした。
あれよと、芙蓉は、老僧を慕つて追い縋つたが、途端に、塔の口元の扉は内から閉ぢられてゐた。
「和上さま。和上さま!」
芙蓉は慈父を失つたやうに、扉をたゝいて泣いてゐたが、その時、高い塔の頂(いただ)きで、再び老僧の声がした。
「青年。わしの指を御覧。わしの指さすほうを御覧。——こゝの疎林から西北だよ。北斗星が燦(かがや)いてをる。それを的(あて)にどこまでも逃げてゆくがよい。南も東も蓮池の畔も、寺の近くにも、賊兵の影が道を塞いでゐる。逃げる道は、西北しかない。それも今のうちぢや。はやく白馬に鞭打たんか」
「はいつ」
答へながら仰ぐと、老僧の影は、塔上の石欄に立つて、一方を指さしてゐるのだつた。
「佳人。はやくお騎(の)りなさい。泣いてゐるところではない」
劉備は、彼女の細腰(サイエウ)を抱き上げて、白馬の鞍にすがらせた。
芙蓉の体はいと軽かつた。柔軟で高貴な薫りがあつた。そして彼女の手は、劉備の肩に纏(まと)ひ、劉の頰は、彼女の黒髪に触れた。
劉備も木石ではない。曽(かつ)て知らない動悸(ときめき)に、血が熱くなつた。けれどそれは、地上から鞍の上まで、彼女の身を移すわづかな間でしかなかつた。
「御免」
と云ひながら、劉備も騎(の)つて一つ鞍へ跨がつた。そして片手に彼女を支(ささ)へ、片手に白馬の手綱を把(と)つて、老僧の指さした方角へ馬首を向けた。
塔上の老僧は、それを見下すと、我事(わがこと)了(をわ)れり——と思つたか、突然、歓喜の声をあげて、
「見よ、見よ。凶雲没して、明星出づ。白馬翔(か)けて、黄塵滅す。——こゝ数年を出でないうちぢやらう。青年よ、はや行け。おさらば」
云ひ終ると、自ら舌を嚙んで、塔上の石欄から百尺下の大地へ、身を躍らして、五体の骨を自分で砕ひてしまつた。
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次回 → 張飛卒(一)(2023年9月15日(木)18時配信)