第一回 → 黄巾賊(一)
前回はこちら → 白芙蓉(五)
****************************************************************
白馬は疎林の細道を西北へ向つて驀(まつ)しぐらに駆けて行つた。秋風に舞ふ木の葉は、鞍上の劉備と芙蓉の影を、征箭(せいや)のようにかすめた。
やがて曠(ひろ)い野に出た。
野に出ても、二人の身を猶(なほ)、箭(や)うなりがかすめた。今度のは木の葉のそれではなく、鋭い鏃(やじり)を持つた鉄弓の矢であった。
「オ。あれへ行くぞ」
「女を騎(の)せて——」
「では違ふのか」
「いや、やはり劉備だ」
「どつちでもいゝ。逃がすな。女も逃がすな」
賊兵の声々であつた。
疎林の陰を出た途端に、黄巾賊の一隊は早くも見つけてしまつたのである。
獣群の声が、鬨(とき)を作つて、白馬の影を追ひつめて来た。
劉備は、振向いて、
「しまつた!」
思はず呟いたので、彼と白馬の脚とを唯一の頼みにしがみついてゐた芙蓉は、
「あゝ、もう……」
消え入るやうに顫(をのゝ)いた。
万が一つも、助からぬものとは観念しながらも、劉備は励まして、
「大丈夫。大丈夫。唯(たゞ)、振り落されないやうに、駒の鬣(たてがみ)と、私の帯に、必死でつかまつておいでなさい」と、いつて、鞭打つた。
芙蓉はもう返事もしない。ぐつたりと鬣に顔を俯伏せてゐる。その容貌(かんばせ)の白さは戦(をのゝ)く白芙蓉の花そのままだつた。
「河まで行けば。県軍のゐる河まで行けば! ……」
劉備の打ちつゞけていた生木(なまき)の鞭は、皮が剝げて白木になつてゐた。
低い土坡(ドハ)の蜿(うね)りを躍り越えた。遠くに帯のやうな流れが見えて来た。しめたと、劉備は勇気をもり返したが、河畔まで来てもそこには何物の影もなかつた。宵に屯(たむろ)してゐたという県軍も、賊の勢力に怖れをなしたか、陣を払つて何処かへ去つてしまつたらしいのである。
「待てツ」
驢に騎(の)つた精悍な影は、その時もう五騎六騎と、彼の前後を包囲して来た。いふまでもなく黄巾賊の小方等(ら)である。
驢を持たない徒歩の卒共は、駒の足に続き限(き)れないで、途中で喘いでしまつたらしいが、李朱氾を初めとして、騎馬の小方(小頭目)たち七、八騎は忽(たちま)ち追ひついて、
「止れツ」
「射るぞ」と、呶鳴(どな)つた。
鉄弓の絃(つる)を離れた一矢は、白馬の管囲に突き刺つた。
喉に矢を立てた白馬は、棹立ちに躍り上がつて、一声(イツセイ)嘶(いなな)くと、だうと横ざまに仆れた。芙蓉の身も、劉備の体も、共に大地へ抛(はう)り捨てられてゐた。
そのまゝ芙蓉は身動きもしなかつたが、劉備は起ち上つて、
「何かつ!」
と、さけんだ。彼は今日まで、自分にそんな大きな声量があらうとは知らなかつた。百獣も為に怯み、曠野を野彦(のびこ)して渡るやうな大喝が、唇(くち)から無意識に出てゐたのである。
賊は、恟(ぎよ)つとし、劉備の大きな眼の光に愕(おどろ)き、驢は彼の大喝に、蹄をすくめて止つた。
だが、それは一瞬で、
「何を、青二才」
「手抗(むか)ふ気か」
驢を跳びおりた賊は、鉄弓を捨てゝ大剣を抜くもあり、槍を舞はして、劉備へいきなり突つかけて来るもあつた。
****************************************************************
次回 → 張飛卒(二)(2023年9月15日(金)18時配信)