第一回 → 黄巾賊(一)
前回はこちら → 張飛卒(一)
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何(ど)ういふ悪日と凶(わる)い方位を辿つて来たものだらうか。
黄河の畔から、ここ迄(まで)の間といふもの、劉備は、幾たび死線を彷徨した事か知れない。これでもかこれでもかと、彼を試さんとする百難が、次々に形を変へて待構へてゐるやうだつた。
「もうこれ迄」
劉備も遂に観念した。避けようもない賊の包囲だ。斬死せんものと覚悟を定めた。
けれど身には寸鉄も帯びてゐない。少年時代から片時も離さず持つてゐた父の遺物(かたみ)の剣も、先に賊将の馬元義に奪(と)られてしまつた。
劉備は、併(しか)し、
「たゞは死なぬ」
と思ひ、石ころを摑むが早いか、近づく者の顔へ投げつけた。
見くびつてゐた賊の一名は、不意を喰つて、
「呀(あ)ツ」
と、鼻ばしらを抑へた。
劉備は、飛ついて、その槍を奪つた。そして大音に、
「四民を悩ます害虫ども、もはや免(ゆる)しは置かぬ。涿県の劉備玄徳が腕のほどを見よや」
と云つて、捨身になつた。
賊の小方、李朱氾は笑つて、
「この百姓めが」
と半月槍を揮つて来た。
元より劉備はさして武術の達人ではない。田舎の楼桑村で、多少の武技の稽古はした事もあるが、それとて程の知れたものだ。武技を磨いて身を立てる事よりも、蓆を織つて母を養ふ事のはうが常に彼の急務であつた。
でも、必死になつて、七人の賊を対手(あひて)に、やや暫くは、一命を支へてゐたが、そのうちに、槍を打落され、蹌(よろ)めいて倒れた所を、李朱氾に馬のりに組み敷かれて、李の大剣は、遂に、彼の胸いたに突きつけられた。
——おゝういつ。
すると、……いや先刻(さつき)からその声は遠くでしたのだが、剣戟のひびきで、誰の耳にも入らなかつたのである。
遙か彼方の野末から、
「——おゝういつ。待つてくれい」
呼ばはる声が近づいて来る。
野彦のやうに凄い声は、思はず賊の頭(かうべ)を振向かせた。
両手を振りながら韋駄天と、此方(こなた)へ馳けて来る人影が見える。その迅い事は、まるで疾風に一葉の木の葉が舞つて来るやうだつた。
だが瞬く間に近づいて来たのを見ると、木の葉どころか、身の丈七尺もある巨漢(おほをとこ)だつた。
「やつ、張卒(チヤウソツ)ぢやないか」
「さうだ。近頃、卒の中に入つた下ツ端の張飛だ」
賊は、不審さうに、顔見合せて云ひ合つた。自分等(ら)の部下の中にゐる張飛という一卒だからである。餘(ほか)の大勢の歩卒は、騎馬に追ひつけず皆、途中で遅れてしまつたのに、張卒だけが、たとひ一足遅れたにせよ、この位の差で追ひついて来たのだから、その脚力にも、賊将たちは愕(おどろ)いたに違ひなかつた。
「なんだ、張卒」
李朱氾は、膝の下に、劉備の体を抑へつけ、右手(めて)に大剣を持つて、その胸いたに擬しながら振向いて云つた。
「小方。小方。殺してはいけません。その人間は、わしに渡して下さい」
「何? ……誰の命令で貴様はそんな事をいふのか」
「卒の張飛の命令です」
「ばかつ。張飛は、貴様自身ぢやないか。卒の分際で」
と、云ふ言葉も終らぬ間に、さう罵つてゐた李朱氾の体は、二丈もうへの空へ飛んで行つた。*
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次回 → 張飛卒(三)(2023年9月16日(土)18時配信)