第一回 → 黄巾賊(一)
前回はこちら → 張飛卒(二)
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卒の張飛が、いきなり李朱氾を抓(つま)み上げて、宙へ投げ飛ばしたので、
「やつ、こいつが」
と、賊の小方たちは、劉備もそつちのけにして、彼へ総掛りになつた。
「やい張卒、何で貴様は、味方の李小方を投げ居つたか。又、おれ達のすることを邪魔だてするかつ」
「ゆるさんぞ。ふざけた真似すると」
「党の軍律に照らして、成敗してくれる。それへ直れ」
犇(ひしめ)き寄ると、張は、
「わはゝゝゝゝ。吠えろ[吠えろ]。胆をつぶした野良犬めらが」
「何。野良犬だと」
「さうだ。その中に一匹でも、人間らしいのが居るつもりか」
「うぬ。新米の卒の分際で」
喚(をめ)いた一人が、槍もろ共、躍りかゝると、張飛は、団扇(うちは)のやうな大きな手で、その横顔を撲(は)りつけるや否や、槍を引ツ奪(た)くつて、蹌(よろ)めく尻を強(したた)かに打ちのめした。
槍の柄は折れ、打たれた賊は、腰骨が砕けたやうに、ぎやつともんどり打つた。
思はぬ裏切者が出て、賊は狼狽したが、日頃から図抜けた巨漢(おほをとこ)の鈍物と、小馬鹿にしてゐた卒なので、その怪力を眼に見てもまだ、張飛の真価を信じられなかつた。
張飛は、さながら岩壁のやうな胸いたを反(そ)らして、
「まだ来るか。むだな生命(いのち)を捨てるより、おとなしく逃げ帰つて、鴻家の姫と劉備の身は、先頃、県城を焼かれて鴻家の亡びた時、降参と偽つて、黄巾賊の卒に這入(はい)つてゐた張飛といふ者の手に渡しましたと、有態(ありてい)に報告しておけ」
「あつ! ……では汝は、鴻家の旧臣だな」
「今気が着いたか。此方は県城の南門衛少督を勤めてゐた鴻家の武士で名は張飛、字(あざな)は翼徳と申すものだが無念や此方が他県へ公用で留守の間に、黄巾賊の輩(やから)の為に、県城は焼かれ、主君は殺され、領民は苦しめられ、一夜に城地は焦土と化してしまつた。——その無念さ、いかにもして、怨みをはらしてくれんものと、身を偽り、敗走の兵と化けて、一時、其方共の賊の中に、卒となつて隠れてゐたのだ。——大方馬元義にも、又、総大将の兇賊張角にも、よく申しておけ。いづれ何時(いつ)かはきつと、張飛翼徳が思ひ知らせてくるゝぞと」
雷(いかづち)のやうな声だった。
豹頭環眼、張飛がさう云つて刮(くわ)つと睨(ね)めつけると、賊の小方等(ら)は、足も竦(すく)んでしまつたらしいが、まだ衆を恃(たの)んで、
「さては、鴻家の残兵だつたか。さう聞けば猶(なほ)の事、生かしてはおけぬ」
と、一度に打つてかゝつた。
張飛は、腰の剣も抜かず、寄りつく者を把(と)つては投げた。投げられた者は皆、脳骨を砕き、眼窩は飛び出し、瞬くうちに碧血の大地惨として、二度と起き上がる者はなかつた。
劉備は、茫然と、張飛の働きをながめてゐた。燕飛龍鬂(エンピリウビン)、蹴れば雲を生じ、吠ゆれば風が起るやうだつた。
「何といふ豪傑だらう?」
残る二、三人は、驢に飛びついて逃げ失せたが、張飛は笑つて追ひもしなかつた。そして踵(きびす)を回(めぐ)らすと、劉備のはうへ大股に近づいて来て、
「いや旅の人。えらい目に遭ひましたなあ」
と、何事も無かつたやうな顔して話しかけた。そして直ぐ、腰に帯びてゐたる二剣のうちの一つを外し、又、懐中(ふところ)から見覚えのある茶の小壺を取出して、
「これは貴郎(あなた)の物でせう。賊に奪(と)り上げられた貴郎の剣と茶壺(チヤコ)です。さあ取つて置きなさい」
と、劉の手へ渡した。
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次回 → 張飛卒(四)(2023年9月18日(月)18時配信)
(なお、日曜日については夕刊が休刊のため、配信はありません。)