第一回 → 黄巾賊(一)
前回はこちら → 張飛卒(三)
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「あ。私のです」
劉備は、失くした珠が返つて来たやうに、剣と茶壺(チヤコ)の二品を、張飛の手から受取ると、幾度も感謝を表して、
「すでに生命(いのち)もない所を救つて戴いた上に、この大事な二品まで、自分の手に戻るとは、何だか、夢のやうな心地がします。大人(タイジン)のお名前は、先程聞きました。心に銘記しておいて、御恩は生涯忘れません」
と、言つた。
張飛は、首(かうべ)を振つて、
「いや[いや]徳は孤(こ)ならずで、貴公がそれがしの旧主、鴻家の姫を助け出してくれた義心に対して、自分も義を以てお答へ申したのみです。ちやうど最前、古塔の辺りから白馬に騎(の)つて逃げた者があると、哨兵の知らせに、こよひ黄巾賊の将兵が泊つていた彼(あ)の寺が、すはと一度に、混雑に墜ちた隙をうかゞひ、夕刻見ておいた貴公のその二品を、馬元義と李朱氾の眠つてゐた内陣の壇からすばやく奪ひ返し、追手の卒と共にこれ迄(まで)馳けて来たものでござる。貴公の孝心と、誠実を天もよみし賜うて、自然(ジネン)お手に戻つたものでせう」
と、理由(わけ)をはなした。張飛が武勇に誇らない謙遜なことばに、劉備はいよ[いよ]感じて、感銘の餘り二品のうちの剣の方を差出して、
「大人、失礼ですが、これは御礼として、貴郎(あなた)に差上げませう。茶は、故郷(くに)に待つてゐる母の土産なので、頒(わか)つ事はできませんが、剣は、貴郎のやうな義胆の豪傑に持つて戴けば、むしろ剣そのものも本望でせうから」
と、再び、張飛の手へ授けて言つた。
張飛は、眼をみはつて、
「えつ、此品(このしな)をそれがしに、賜はると仰つしやるのですか」
「劉備の寸志です。どうか納めておいて下さい」
「自分は根からの武人ですから、実をいへば、この剣の世に稀な名刀だといふ事は知つてゐますから、欲しくてならなかつた所です。けれど、同時に貴公とこの剣との来歴も聞いてゐましたから、望むに望めないで居りましたが」
「いや、生命(いのち)の恩人へ酬いるには、之(これ)を以(もつ)てしても、まだ足りません。しかも剣の真価を、そこ迄、解つて居て下されば、猶更(なほさら)、差上げても張合ひがあり自分としても満足です」
「さうですか。然(しか)らば、他ならぬ品ですから、頂戴しておかう」
と、張飛は、自身の剣をすぐ解捨(ときす)て、渇望の名剣を身に佩いていかにも欣(うれ)しさうであつた。
「ぢやあ早速ですが、又賊が押返して来るにきまつてゐる。それがしは鴻家の御息女を立てゝ、旧主の残兵を集め、事を謀る考へですが——貴公も一刻もはやく、郷里へさしてお帰りなさい」
張飛のことばに、
「おゝ、それでは」
と、劉備は、芙蓉の身を扶けて、張飛に託し、自分は、賊の捨てた驢をひろつて跨つた。
張飛は、先に自分が解捨てた剣を鞍上の劉備の腰に佩かせてやりながら、
「こんな剣でも帯ておいでなされ。まだ、涿県までは、数百里もありますから」
と、云つた。
そして張飛自身も、芙蓉の身を抱いて、白馬の上に移り、名残り惜気(をしげ)に、
「いつか又、再会の日もありませが、では御機嫌よく」
「おゝ、きつと又、会ふ日を待たう。貴郎も武運めでたく、鴻家の再興を成し遂げらるゝやうに」
「ありがとう。では」
「おさらば——」
劉備の驢と、芙蓉を抱へた張飛の白馬とは、相顧(あいかへ)りみながら、西と東に別れ去つた。
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次回 → 桑の家(一)(2023年9月19日(火)18時配信)