第一回 → 黄巾賊(一)
前回はこちら → 乱兆(三)
***************************************
潘隠が告げていふには、
「十常侍の輩(ともがら)は例に依つて、帝の崩御と同時に、謀議をこらし、帝の死を隠しておいて、先(ま)づ貴方(あなた)を宮中に召し、後の禍(わざはひ)を除いてから喪(も)を発し、協皇子を立てゝ御位を継がしめようといふ魂胆に密議は一決を見たやうであります。——きつと今に、宮中から帝の名を以(もつ)て、将軍に参内せよと、使(つかひ)がやつてくるにちがひありません」
何進は聞いて、
「獣め等、よしつ、それならそれで俺にも考へがある」
憤怒(ふんぬ)して、会議の壇に戻り、潘隠の密報を、諸大臣や並居る文武官に公然とぶちまけて発表した。
ところへ案の定、宮中からお召(めし)といふ使者が来邸して、
「天子、今御気息も危(あやふ)し。枕頭に公を召して、漢室の後事を託せんと宣(のたま)はる。いそぎ参内あるべし」
と、恭しくいつた。
「狸め」
何進は、潘隠へ向つて、
「こいつを血祭にしろ」
と命じるや否や、再び、会衆の前に立つて、
「もう俺の堪忍はやぶれた。断乎として俺は欲する事をやるぞ!」
と呶鳴(どな)つた。
すると、先に忠言して何進に一喝された典軍の校尉曹操が、ふたゝび沈黙を破つて、
「将軍々々。今日遂に断を下して計を為さんとするならば、先(まづ)、天子の位を正して然(しか)る後に賊を討つことを為し給へ」
と叫んだ。
何進も、今度は前のやうに、だまれとはいはなかつた。大きく頷(うなづ)いて、
「誰か我が為(ため)に、新帝を正して、宮闕(キウケツ)の謀賊どもを討ち尽さん者やある」
爛(ラン)たる眼(まなこ)をして、衆席を見まはすと、時に、彼の声に応じて、
「司隷校尉(シレイカウヰ)袁紹(ヱンセウ)ありつ!」
と、名乗つて起(た)つた者がある。
人々の首(かうべ)は、一斉にその方へ振向いた。見れば其人は、貌相(バウサウ)魁偉(クワイヰ)胸ひろく双肩威風をたゝへ、武藝抜群の勇将とは見られた。
是(これ)なん、漢の司徒袁安(ヱンアン)が孫、遠逢(ヱンホウ)が子、袁紹であつた。袁紹字(あざな)は本初(ホンシヨ)といひ、汝南(ジヨナン)汝陽(ジヨヤウ)(河南省・淮河上流の北岸)の名門で門下に多数の吏事武将を輩出し、彼も現在は漢室の司隷校尉の職にあつた。
袁紹は、昂然と述べた。
「願はくは自分に精兵五千を授け給へ。直(たゞち)に禁門に入つて、新帝を擁立し奉り、多年禁廷に巣くふ内官共をことごとく誅滅して見せませう」
何進はよろこんで、
「行けつ」
と、号令した。
この一声に洛陽の王府は一転戦雲の天と修羅の地に化(な)つたのである。
袁紹は、忽(たちま)ち鉄甲に身を鎧ひ、御林の近衛兵五千を引つさげて、内裏まで押通つた。王城の八門、市中の衛門のこらず閉ぢて戒厳令を布(し)き、入るも出ずるも味方以外は断乎として一人も通すなと命じた。
その間に。
何進も亦(また)、車騎将軍たる武装をして何顒(カグウ)、荀攸(ジユンシウ)、鄭泰(テイタイ)などの一族や大臣卅餘名を伴ひ、陸続と宮門に入り、霊帝の柩(ひつぎ)のまへに、彼が支持する辨太子を立たゝせて、即座に、新帝御即位と宣言し、自分の発声で、百官に万歳を唱へさせた。
****************************************
次回 → 舞刀飛首(ぶたうひしゆ)(一)(2023年12月23日(土)18時配信)