第一回 → 黄巾賊(一)
前回はこちら → 乱兆(二)
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黄匪の乱が熄(や)んでから又間もなく、近年各地に蜂起した賊では、漁陽(ギヨヤウ)(河北省)を騒がした張挙(チヤウキヨ)、張純(チヤウジユン)の謀叛。長沙(チヤウサ)、江夏(カウカ)(湖北省・岳州の南)あたりの兵匪の乱などが最も大きなものだつた。
「天下は泰平です。みな帝威に伏して、何事もありません」
十常侍の輩は、口をあはせて、いつもそんなふうにしか、奏上してゐなかつた。
だが。
長沙の乱へは、孫堅を向はせて、平定に努めてゐた。
又劉焉を益州の牧(ボク)に封じ、劉虞(リウグ)を幽州に封じて、四川(シセン)や漁陽方面の賊を討伐させてゐた。
その頃。
故郷の涿県から再び戻つて、代州の劉恢の邸(やしき)に身を寄せてゐた玄徳は、主(あるじ)劉恢から(時節が来た。これを携へて、幽州の劉虞を訪ねてゆき給へ。虞は自分の親友だから、君の人物を見れば、きつと重用するだらう)
と云はれて、一通の紹介状をもらつた。
玄徳は恩を謝して、直(たゞち)に、関羽張飛などの一族をつれ、劉虞の所へ行つた。劉虞はちやうど、中央の命令で、漁陽に起(おこ)つた乱賊を誅伐にゆく出陣の折であつたから、大いに欣(よろこ)んで
(よし。君らの一身はひきうけた)
と、自分の軍隊に編入して、戦場へつれて行つた。
四川、漁陽の乱も、漸(やうや)く一時の平定を見たので、その後、劉虞は朝廷へ表を上(たてまつ)つて、玄徳の勲功ある事を大いに頌(たゝ)へた。
同時に、廟堂の公孫瓚(コウソンサン)も
(玄徳なる者は、前々黄賊の大乱の折にも抜群の功労があつたものです)
と、上聞に達したので、朝廷でも捨ておかれず、詔(みことのり)を下して、彼を平原(ヘイゲン)県(山東省平原)の令に封じた。
で玄徳は、即時、一族を率ゐて任地の平原へさし下つた。行つてみると、こゝは地味豊饒で銭粮(センラウ)の蓄へも官倉に満ちてゐるので
(天、我に兵馬を養はしむ)
と、みな非常に元気づいた。そこで玄徳以下、張飛や関羽たちも、漸く茲(こゝ)に酬(むく)いられて、前進一歩の地を占め、大いに武を練り兵を講じ、駿馬に燕麦を飼つて、平原の一角から時雲の去来をにらんでゐた。
——果(はた)せるかな。
一雲去れば一風生じ、征野に賊を掃ひ去れば、宮中の瑠璃殿裡(ルリデンリ)に冠帯の魔魅や金釵(キンサ)の百鬼は跳梁して、内外いよ[いよ]多事の折から、一夜の黒風に霊帝は崩ぜられてしまつた。
紛乱はいよ[いよ]紛乱を見るであらう。漢室四百年の末期相は漸くここに瓦崩のひゞきをたてたのである。——如何(いか)になりゆく世の末やらん、と霊帝崩御の由を知ると共に、人々みな色を失つて、呆然、足もとの大地が九仞(キウジン)の底へめりこむやうな顔をしたのも、あながち、平常の心がけ無き者とばかり嗤(わら)へもしない事であつた。
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会議の席も、寂(セキ)としてしまひ、咳声(しはぶき)をする者すらなかつたが、そこへ又、慌(あはたゞ)しく
「将軍。お耳を」
と、室外にちらと影を見せた者があつた。
何進に通じている禁門の武官潘隠(ハンイン)であつた。
「オ、潘隠か。何だ」
何進はすぐ会議の席を外し、外廊で何かひそひそ潘隠の囁(さゝや)きを聞いてゐた。
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次回 → 乱兆(四)(2023年12月22日(金)18時配信)