第一回 → 黄巾賊(一)
前回はこちら → 故園(こゑん)(二)
****************************************************************
思ひのほかな母の不機嫌な気色(けしき)なのである。それも、自分を励まして下さるためと、劉玄徳は、かへつて大きな愛の下に泣きぬれてしまつた。
母は、その子を、大地に見ながら、なほ叱つて云つた。
「まだおまへが郷土を出てから、わづか二年か三年ではないか。貧しい武器と、訓練もない郷兵を集めて、このひろい天下の騒乱の中へ打つて出たおまへが、たつた三年やそこらで、功を遂げ名を揚げて戻つて来ようなどゝ……そんな夢みたいな事を母は考へて待つてをりはしない。……世の中といふものはそんな単純ではありません」
「母上。……玄徳の過(あやま)りでございました。何処へ行つても、自分の正義は通らず、戦つても戦つても、何の為(ため)に戦つたのか、此頃、ふと失意のあまり疑ひを抱いたりして」
「戦に勝つ事は、強い豪傑ならば、誰でもする事です。さういふ正しい道の邪(さまた)げにも、自分自身を時折に襲つてくる弱い心にも打ち克たなければ、所詮、大事はなし遂げられるものではあるまいが」
「……さうです」
「ようく、お分りであらう。……もうそなたも三十に近い男児。それくらゐな事は」
「はい」
「そこらの豪傑たちが、乱世に乗じて、一州一郡を伐取(きりと)りするやうな小さい望みとは違ふはずです。漢の宗室の末孫、中山靖王の裔であるおまへが、万民のために、剣を把(と)つて起(た)つたのですよ」
「はい」
「千億の民の幸を思ひなさい。老先のないこの母ひとりなどが何であらう。そなたの心が——折角奮ひ起した大志が——この母ひとりの為(ため)に鈍るものならば、母は、億民のために生命を縮めても、そなたを励ましたいと思ふほどですよ」
「あ。母上」
玄徳は驚いて、ほんとにさういふ決心もしかねない母の袂(たもと)に縋(すが)つて、
「悪うござりました。もう決して女々しい心はもちません。あしたの朝は、夜の明けぬうちにこゝを去りますから、どうかたゞ一晩だけお側において下さいまし」
「…………」
老母も、くづれるやうに、地へ膝をついた。そして、玄徳の体を、そつと抱いて、白髪の鬢をふるはせながら囁(さゝや)いた。
「阿備や……。だが、わたしはね、亡きお父さんの代りにもなつて云ふのだよ。今のは、お父さまの御声だよ。お叱りだよ。——あしたの朝は、近所の人の人目にかからないやうに、暗いうちに立つておくれね」
さう云ふと、老母はいそ[いそ]と母屋のはうへ立ち去つた。
間もなく、厨(くりや)のはうから、夕餉(ゆふげ)を炊(かし)ぐ煙が這つて来た。失意の子のために、母はなにか温(あたゝか)い物でも夕餉にと煮炊してゐるらしいのであつた。
玄徳は、その間に、蓆機(むしろばた)へ寄つて、織りのこして行つた幾枚かの蓆を織りあげてゐた。
手元が暗くなつてくる。白い夕星がもう上にあつた。
機(はた)を離れて、彼はひとり、裏の桃林を逍遥してゐた。はや晩春なので、桃の花はみな散り尽して黒い花の蕋(しべ)を梢に見るだけであつた。
「噫(あゝ)。故園は変らない——」
玄徳は嘆じた。
桃花は又春に若やぐが、母の白髪が再び黒く回(かへ)る日はない。春秋は人の身のうへにのみ短い。しかも自分の思ふ望みは遠く又大きく、いつの日、彼の母が心のそこから欣(よろこ)んでくれる時が来るだらうか、考へると、徒(いたづ)らに大きな嘆声が出るばかりであつた。
「——阿備やあ。阿備やあ」
もう暗い母屋のはうでは、母が夕餉のできた事を告げて呼んでゐる。玄徳は、何の悩みもなかつた少年の頃を思ひ出して、少年のやうに遠くから高く答へながら馳け出した。
****************************************************************
次回 → 乱兆(一)(2023年12月19日(火)18時配信)
今回で【桃園の巻】は完結となります。初版単行本化(全14冊)の際は、この回までで第1冊「桃園の巻」となっています。新聞連載では、次回より【出廬の巻】となります。