第一回 → 黄巾賊(一)
前回はこちら → 故園(こゑん)(一)
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関羽と張飛のふたりに別れてから、玄徳は姿を土民のふうに変へて、たゞ一人、故郷の涿県楼桑村へ、そつと帰つて行つた。
「ああ、桑の木も変らずにある……」
何年ぶりかで、わが家の門を見た玄徳は、そこに立つと一番先に、例の巨(おほ)きな桑の大樹を、懐(なつか)しげに見上げてゐた。
——かたん、
——ことん。かたん、
すると蓆(むしろ)を織る機(はた)の音が家の裏のはうで聞えた。玄徳は、はつと心を打たれた。こゝ両三年は馬上に長槍を把(と)つて、忘れはてゝいたが、幼少から衣食してきた生業(なりはひ)の莚織(むしろおり)の機(はた)は、今猶(なほ)、この故郷の家では休んでゐなかつた。
その機(はた)を、その筬(をさ)を、今も十年一日のごとく動かしてゐる者は誰だらうか。
問ふまでもない、玄徳の母であつた。征野に立つた息子の後を、ひとり留守してゐる老いたる母にちがひなかつた。
「……いかにお淋しい事であつたらう。又、御不自由な事であつたらう」
家にはいらぬうちに、玄徳はもう瞼(まぶた)を涙でいつぱいにしてゐた。思へば幾年の間、転戦又転戦、故郷の母に衣食の費を送る遑(いとま)さへなかつた。便りすら幾度か数へるほどしかしてゐなかつた。
——すみません。
彼はまづ故園の荒れたる門に心から詫びて、そして機(はた)の音の聞える裏のはうへ馳けこんで行つた。
噫(あゝ)そこに、黙然と、蓆を織つてゐる白髪の人。——玄徳は見るなり後ろから馳け寄つて、母の足もとへ、
「母上つ」
跪(ひざま)づいた。
「——母上。わたくしです。今帰つて参りました」
「……?」
老母は、驚いた顔して、機(はた)の手を休(や)めた。そして、玄徳のすがたを凝(じつ)と見て、
「……阿備か」
と、云つた。
「長い間、お便りもろくにせず、定めし何かと御不自由でございましたらう。陣中心にまかせず、又転戦から転戦と、戦(いくさ)に暮れてをりました為(ため)に」
子の言葉を遮るやうに、
「阿備。……そしておまへはいつたい、何しに帰つて来たのですか」
「はい」
玄徳は地に面を伏せて、
「まだ志も達せず、晴れて母上にお目にかゝる時機でもありませんが、先頃から官地を去つて、野に潜んでをります故、役人たちの目をぬすんで、そつと一目、御無事なお顔を見に戻つて参りました」
老母の眼は明(あきら)かに潤んでみえた。髪もわづかのうちに梨の花を盛つたように雪白になつてゐた。眼元の肉も窶(やつ)れてみえるし——機(はた)にかけてゐる手は藁(わら)ゴミで荒れてゐる。
然(しか)し、以前にかはらないものは、子に対して凝(じつ)と向ける時の大きな愛と峻厳な強さであつた。こぼれ落ちさうな涙をもこらへて、老母は、静かに云ふのだつた。
「阿備……」
「はい」
「それだけで、そなたは此家へ帰つておいでなのかえ」
「え。……ええ」
「それだけで」
「——母上」
縋(すが)り寄る劉備玄徳の手を、老母は、藁ゴミ共に裳(もすそ)から払つて、たしなめるやうにきつく云つた。
「なんです。嬰児(あかご)のやうに。……それでもおまへは憂国の大丈夫ですか。帰つて来たものはぜひもないが、長居はなりませんぞ。こよひ一晩休んだら、直(す)ぐ出てゆくがよい」
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次回 → 故園(こゑん)(三)(2023年12月18日(月)18時配信)
(なお、日曜日については夕刊が休刊のため、配信はありません。)