第一回 → 黄巾賊(一)
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その翌日である。玄徳たち三名は、遽(にはか)に五臺山麓の地、劉恢の邸宅から一時身を去ることになつた。
別れに臨んで、主の劉恢は、落魄の豪傑玄徳等のために別離の小宴をひらいて、偖(さて)云ふには、
「又、時を窺(うかゞ)つて、此地へぜひ戻つてお出でなさい。お連れになつて来た二十名の兵や下僕(しもべ)たちは、それまでてまへの邸(やしき)に預かつておきませう。そして今度お見えになつた時こそ、再起の御準備におかゝりなさい。黄巾の乱は小康を得ても、洛陽の王府そのものに自潰の兆(きざし)が顕(あらは)れて来てゐます。折角、自重自愛して、どうか国家のために尽してください」
「ありがたう」
四人は起(た)つて乾杯した。
劉恢のいふやうに、こゝへ来る時連れて来た二十名ばかりの一族郎党の身は、皆、劉家に託しておいて、関羽、張飛、玄徳、思ひ思ひに別れて一時身をかくす事となつた。
が——劉家の門を出る時は、三人一緒に出た。世間の眼もあるので、劉恢はわざと見送らなかつた。けれど、邸内の楼台から三名の姿が遠くなるまで独り見送つてゐた美人があつた。いふ迄(まで)もなく芙蓉娘であつた。
張飛は知つてゐた。
しかし、わざと何も云はなかつた。玄徳も黙々と歩いてゐた。
もう五臺山の影も後ろに遠く霞んでから、張飛がそつと玄徳へ云つた。
「きのふお言葉を伺つて、もう自分等もあなたの心事を疑ふやうな気もちは抱いてをりません。むしろ大丈夫の多情多恨のおこゝろを推察してをりますよ。例へば、私が酒を愛するやうなものですからな」
彼は、酒と恋を、一つものに考へてゐるのだ。
その程度だから、玄徳の心に同情すると云つても、およそ玄徳の感傷と甚だ遠いものにちがひなかつた。
「——だが、長兄」
と、張飛は又、玄徳の顔をさし覗いて云つた。
「豪傑は色に触るべからずといふ法はない。貴方(あなた)だつて一生涯独身でゐられるわけもない。ほんとに芙蓉娘がお好きならこの張飛が話して何(ど)んな事にでもします。拙者に取つては、旧主の御息女ではあるし、あゝいう頼りのないお身の上ですからむしろ貴方に願つても生涯を見て戴(いたゞ)きたい位なものですよ。けれど今はいけませんな。時でないでせう。志を得た後の事にね」
「わかつたよ」
玄徳は、うなづいた。
それから州道の道標の下まで来ると、
「ぢやあ、わしはこゝから一人別れて、一先(ひとま)づ郷里の涿県へ行くからね、いづれ又、一度この五臺山下へ帰つて来るが」
と、云つた。
張飛も、関羽も、各々そこから別れて、一先づ思ひ思ひに落ちてゆくつもりであつたが、片時の間も離れた事のない三人なので、さすがに寂しげに、
「こんどはいつこゝで会はう」
「この秋」
玄徳が云ふ。二人はうなづいて、
「では貴方はこれから涿県の母御の許(もと)へお出でになるおつもりですか」
「うム。御無事なお顔だけ拝したら、又すぐ風雲の裡(うち)へ帰つて来る。涼秋の八月、再び三人して、五臺山の月を見よう」
「おさらば」
「気をつけて」
「お互ひに」
三名は三方の道へ、暫(しば)し別離の姿を顧み合つた。
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次回 → 故園(こゑん)(二)(2023年12月16日(土)18時配信)