第一回 → 黄巾賊(一)
前回はこちら → 岳南の佳人(四)
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この家の深窓の佳人と玄徳とが、いつのまにか、春宵(シユンセウ)の秘語を楽しむ仲になつてゐるのを目撃して、関羽は、非常な愕(おどろ)きと狼狽をおぼえた。
「ああ、平和は雄志を蝕(むしば)む」
彼は、慨嘆した。
見まじきものを見たやうに関羽はあわてゝ後苑の梨畑から馳け戻つて来た。そして客館の食卓の部屋をのぞくと、張飛はたゞ一人でまだそこに酒を飲んでゐた。
「おい」
「やあ、何処(どこ)へ行つてゐたのだ」
「まだ飲んでゐるのか」
「飲むより他に為す事はないぢやないか。いかに脾肉(ヒニク)を嘆じたところで、時(とき)利あらず、風雲招かず、蛟龍(かうりよう)も淵に潜んでゐるしかない。——どうだ、貴公も酒の淵に潜まんか」
「一杯もらはう、実は今、いつぺんに酒が醒めてしまつたところだ」
「どうしたのか」
「……張飛」
「ウム」
「おれは、貴様のやうに、徒(いたづ)らに現在の世態や時節の来ぬことを、さう悲観はしないつもりだが、今夜は落胆(がつかり)してしまつた。——野(や)に隠れ淵に潜むとも、いつか蛟龍は風雲を捉へずにゐないと信じてゐたが」
「ひどく失望の態だな」
「もう一杯くれ」
「めづらしく飲むぢやないか」
「飲んでから話すよ」
「なんだ」
「実は今、おれは、人の秘密を見てしまつた」
「秘密を」
「されば。先頃から貴様が謎めいた事をいふので、こよひ玄徳様が出て行つた後からそつと尾(つ)けて行つてみたのだ。すると何(ど)うだらう……噫(あゝ)、おれは語るに忍びん。あんな柔弱な人物だとは思はなかつた」
「何を見たのだ一体」
「あらう事かあるまい事か。当家の深窓に養はれてゐる芙蓉娘(フヨウジヤウ)とかいふ麗人と、逢曳(あひびき)をしてをるぢやないか。ふたりはいつのまにか恋愛に墜ちてをるのだ。われ[われ]義軍の盟主ともある者が、一女性に心を囚(とら)はれなどして何が出来よう」
「その事か」
「貴様は前から知つてゐたのか」
「うすうすは」
「なぜわしに告げないのだ」
「でも、できてしまつて居るものは仕方がないからな」
張飛も腐つた顔つきしてつぶやいた。その顔を頰杖に乗せて、片手で独り酒を酌(つ)いで仰飲(あほ)りながら
「英傑児も、あまり平和な温床に長く置くと黴(かび)が生えだして、あゝいふ事になるんだな」
「志を得ぬ鬱勃をさういふ方へ誤魔化しはじめると、人間ももうおしまひだな。……又、彼(あ)の女も女ではないか。あれは劉恢の娘でもないし、いつたい何だ」
「訊かれると面目ない」
「なぜ?なぜ貴様が、面目ないのか」
「……実はその、あの芙蓉娘は拙者の旧主鴻家の御息女なので、劉恢どのも鴻家とは浅からぬ関係があつた人だから、主家鴻家の没落後、おれが芙蓉娘を此家へ連れて来て、匿(かくま)つておいてくれるやうに頼んだお方なのだ」
「え。では貴様の旧主の御息女なのか」
「まだ義盟を結ばない数年前のはなしだが、その芙蓉娘と玄徳様とは、黄匪に追はれて、お互(たがひ)に危(あやふ)い災難に見舞はれてゐた頃、偶然、或る地方の古塔の下で、出会つたことがあるので、疾(とつ)くに双方とも知り合つてゐた仲なのだ」
「え。そんなに古いのか」
関羽が呆れ顔した時、室の外に誰かの沓音(くつおと)が聞えた。
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次回 → 岳南の佳人(六)(2023年12月14日(木)18時配信)
昭和14年(1939)12月14日(木)付の夕刊では、吉川英治「三国志」は休載でした。これに伴い明日12月13日(水)の配信はありません。