第一回 → 黄巾賊(一)
前回はこちら → 岳南の佳人(三)
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張飛のはなしを聞いて関羽にも思い当るふしがあつた。関羽はそれから特に玄徳の容子に注目してゐた。
すると、それから数日後の宵であつた。その朧月(ロウゲツ)が麗(うる)はしかつた。五臺山の半身をぼかした夜霞が野にかけ銀を刷(は)いたような朧を曳(ひ)いてゐた。
「おや。いつのまにか」
気がついて関羽はつぶやいた。三名して食卓を囲んでゐたのである。張飛は例に依つていつまでも酒をのんでゐるし、自分も、杯をもつて対手(あひて)になつてゐたが、玄徳は室を去つたとみえて、彼の空席の卓には、皿や酒盞(シユセン)しか残つてゐない。
「さうだ」
こよひこそ彼の行動をつきとめてみよう。関羽はさう考へたので張飛にも黙つて急に部屋から出て行つた。
そして南苑の白い梨花の径(こみち)を忍びながら歩いては見まはした。
もう奥の内苑に近い。主の劉恢のゐる棟やその家族らの住む棟の燈火(ともしび)は林泉を透(とほ)して彼方に見えるのであつた。
「はて。これから先へゆく筈もないし」
関羽が佇んでゐると、程近い木の間を、誰か、楚々と通る人があつた。見ると、劉恢の姪とかいふこの家の妙齢な麗人であつた。
「……はゝあ?」
関羽は自分の豫感が中(あた)つてかへつて肌寒いこゝちがした。物事の裏とか、人の秘密とかには、むしろ面(おもて)を横にして、無関心でゐたい彼であつたが、つい後から忍んで行つた。
劉恢の姪といふ佳人は、やがて鮮(あざや)かに月の下に立つた。辺りには木蔭もなく物の蔭もなく、たゞ広い芝生に夜露が宝石を撒いたやうに光つてゐた。
すると梨の花の径(こみち)から又ひとりの人影が忽然と立ち上つた。それは花の中に隠れてゐた若い男性であつた。
「オ。玄徳さま」
「芙蓉どの」
ふたりは顔を見あはせてニコと笑み交した。芙蓉の歯が実に美しかつた。
相寄つて
「よく出られましたね」
玄徳が云ふ。
「ええ」
芙蓉はさしうつ向く。
そして梨畑のはうへ、ふたりは背を擁(ヨウ)し合ひながら歩み出して
「劉恢は、あれでとても、厳格な人ですからね。……食客や豪傑たちには、やさしい温情を示す人ですけれど、家庭の者には、おそろしく厳(やか)ましい人なんです。……ですから……、かうして苑(には)へ出て来るにも、ずゐぶん苦心して来るんですの」
「さうでせう。何しろ、われ[われ]のやうな食客が常に何十人もゐるさうですからね。私も、関羽だの張飛だのという腹心の者が、同じ室にゐて、眼を光らしてゐるので、彼等にかくれて出て来るのもなか[なか]容易ではありません」
「なぜでせうね」
「何がですか」
「そんなにお互(たがひ)に苦労しながらでも、夜になると、何(ど)うしてもこゝへ出て来たいのは」
「私もさうです。自分の気もちがふしぎでなりません」
「美しい月ですこと」
「夏や秋の冴えた頃よりも、今頃がいゝですね。夢みてゐるやうで」
梨の花から梨の花の径(こみち)をさまよつて、二人は飽くことを知らぬげであつた。夢みようと意識しながら、敢(あへ)て、夢を追つてゐるふうであつた。****************************************************************
次回 → 岳南の佳人(五)(2023年12月12日(火)18時配信)