三国志研究会(全国版)会報

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吉川英治『三国志(新聞連載版)』(88)岳南の佳人(三)
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吉川英治『三国志(新聞連載版)』(88)岳南の佳人(三)

昭和14年(1939)12月10日(日)付掲載(12月9日(土)配達)

三国志研究会(全国版)
Dec 09, 2023

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第一回 → 黄巾賊(一)

前回はこちら →  岳南の佳人(二)

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「はて、何処(どこ)かで見たやうな」

 玄徳はふとそんな気がした。

 遠目ではあつたが、妙に印象づけられた。もつとも、殺伐な戦場生活だの、僻地から曠野(くわうや)を流浪してきた身なので、よけいに、彼方の女性が美しく見えたのかもしれない。

 麗人は、すぐ広い土塀に囲まれた、豪家の門のうちへ入つてしまつた。

「そこが劉大人の邸(やしき)だ」

 と、たつた今、張飛に教へられたばかりなので、さては劉家の息女かなどと、玄徳はひとり想像してゐた。

 程なく、玄徳等の一行も、そこの門前に着いた。一同は車を停め、驢から降りて、埃(ほこり)まみれな旅の姿を顧みた。

 こゝの主は浪人を愛し、常に多くの食客を養つてゐるといふ。どんな人物であらうか、玄徳や関羽は、会はないうちはいろいろに想像された。

 けれど、張飛に案内されて、南苑(ナンヱン)の客館に通つてみると、まつたく世の風雲も知らぬげな長閑(のど)けさで、浪人を愛するよりは、むしろ風流を愛すことの甚(はなはだ)しい気持の逸人(イツジン)ではないかと思はれた。

 やがての事、

「はい、てまへが、当家の主の劉恢(リウクワイ)です。ようお越しなされました。お身上は最前、張飛どのから聞きましたが、どうぞお気がねなく、一年でも二年でも遊んでゐてください。その代りこんな田舎ですから、何もおかまひはできませんよ、豊(ゆたか)にあるのは、酒ぐらゐなもので」

 かう主の劉恢が出て来てのあいさつに、張飛は、

「ありがたい。酒さへあれば何年だつて居られますよ」

 と、もう贅沢をいふ。

 玄徳はいんぎんに、

「何分(なにぶん)」

 と、暫(しばら)くの逗留を頼み、関羽も姓名や郷地を名乗つて、将来の高誼を仰いだ。

 劉大人は、いかにも大人らしい寡言な人で、やがて召使をよび、三名の部屋として、この南苑の客館を提供し、何かの事などいひつけ、程なく奥へかくれてしまつた。

「どうです、落着くでせう」

 張飛は手がら顔に云ふ。

「落着きすぎる位(くらゐ)だ」

 と、関羽は笑つて、

「ぼろを出さぬやうにしてくれよ」

 と、暗に張飛の酒くせをたしなめた。

 年を越えた。春になつた。

 五台山下の部落は、寔(まこと)に平和なものだつた。こゝには、劉恢が土豪として、村長(むらをさ)の役目をも兼ねてゐるせゐか、悪吏も棲まず、匪賊の害もなかつた。

 しかし、張飛や関羽は、その餘りにも無事なのにむしろ苦しんだ。酒にも平和にも飽(う)んだ。

 それとは違つて、玄徳は近ごろひどく無口であつた。常に物思はしいふうが見える。

「長兄も、此頃は漸(やうや)く、ふたゝび戦野が恋しくなつて来てゐるのではないかな。風雲児、とみに元気がないが」

 或時、関羽が云ふと、

「いやいや、戦野が恋しいのぢやないさ」

 と張飛は首を振つた。

「では、郷里の母御の事でも案じてをられるのかな?」

「それもあらうが、原因はもつとべつな方にある。おれはさう覚(さと)つてゐるが、わざと会はせないんだ」

「ふウむ、原因があるのか」

「ある」

 苦々(にが[にが])しげに張飛は云つた。その顔つきで思ひ出した。近頃、南苑に梨花が咲いて、夜は春月がそれに霞んで又なく麗(うる)はしい。時折その梨苑をさまよふ月よりも美しい佳人が見かけられる。さうするといつのまにか、この客館から玄徳のすがたが見えなくなるのだつた。

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次回 → 岳南の佳人(四)(2023年12月11日(月)18時配信)

(なお、日曜日については夕刊が休刊のため、配信はありません。)

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