第一回 → 黄巾賊(一)
前回はこちら → 岳南の佳人(二)
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「はて、何処(どこ)かで見たやうな」
玄徳はふとそんな気がした。
遠目ではあつたが、妙に印象づけられた。もつとも、殺伐な戦場生活だの、僻地から曠野(くわうや)を流浪してきた身なので、よけいに、彼方の女性が美しく見えたのかもしれない。
麗人は、すぐ広い土塀に囲まれた、豪家の門のうちへ入つてしまつた。
「そこが劉大人の邸(やしき)だ」
と、たつた今、張飛に教へられたばかりなので、さては劉家の息女かなどと、玄徳はひとり想像してゐた。
程なく、玄徳等の一行も、そこの門前に着いた。一同は車を停め、驢から降りて、埃(ほこり)まみれな旅の姿を顧みた。
こゝの主は浪人を愛し、常に多くの食客を養つてゐるといふ。どんな人物であらうか、玄徳や関羽は、会はないうちはいろいろに想像された。
けれど、張飛に案内されて、南苑(ナンヱン)の客館に通つてみると、まつたく世の風雲も知らぬげな長閑(のど)けさで、浪人を愛するよりは、むしろ風流を愛すことの甚(はなはだ)しい気持の逸人(イツジン)ではないかと思はれた。
やがての事、
「はい、てまへが、当家の主の劉恢(リウクワイ)です。ようお越しなされました。お身上は最前、張飛どのから聞きましたが、どうぞお気がねなく、一年でも二年でも遊んでゐてください。その代りこんな田舎ですから、何もおかまひはできませんよ、豊(ゆたか)にあるのは、酒ぐらゐなもので」
かう主の劉恢が出て来てのあいさつに、張飛は、
「ありがたい。酒さへあれば何年だつて居られますよ」
と、もう贅沢をいふ。
玄徳はいんぎんに、
「何分(なにぶん)」
と、暫(しばら)くの逗留を頼み、関羽も姓名や郷地を名乗つて、将来の高誼を仰いだ。
劉大人は、いかにも大人らしい寡言な人で、やがて召使をよび、三名の部屋として、この南苑の客館を提供し、何かの事などいひつけ、程なく奥へかくれてしまつた。
「どうです、落着くでせう」
張飛は手がら顔に云ふ。
「落着きすぎる位(くらゐ)だ」
と、関羽は笑つて、
「ぼろを出さぬやうにしてくれよ」
と、暗に張飛の酒くせをたしなめた。
年を越えた。春になつた。
五台山下の部落は、寔(まこと)に平和なものだつた。こゝには、劉恢が土豪として、村長(むらをさ)の役目をも兼ねてゐるせゐか、悪吏も棲まず、匪賊の害もなかつた。
しかし、張飛や関羽は、その餘りにも無事なのにむしろ苦しんだ。酒にも平和にも飽(う)んだ。
それとは違つて、玄徳は近ごろひどく無口であつた。常に物思はしいふうが見える。
「長兄も、此頃は漸(やうや)く、ふたゝび戦野が恋しくなつて来てゐるのではないかな。風雲児、とみに元気がないが」
或時、関羽が云ふと、
「いやいや、戦野が恋しいのぢやないさ」
と張飛は首を振つた。
「では、郷里の母御の事でも案じてをられるのかな?」
「それもあらうが、原因はもつとべつな方にある。おれはさう覚(さと)つてゐるが、わざと会はせないんだ」
「ふウむ、原因があるのか」
「ある」
苦々(にが[にが])しげに張飛は云つた。その顔つきで思ひ出した。近頃、南苑に梨花が咲いて、夜は春月がそれに霞んで又なく麗(うる)はしい。時折その梨苑をさまよふ月よりも美しい佳人が見かけられる。さうするといつのまにか、この客館から玄徳のすがたが見えなくなるのだつた。
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次回 → 岳南の佳人(四)(2023年12月11日(月)18時配信)
(なお、日曜日については夕刊が休刊のため、配信はありません。)