第一回 → 黄巾賊(一)
前回はこちら → 打風乱柳(ダフウランリウ)(二)
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悲鳴を放つて、張飛の鞭にもがいてゐた督郵は、柳の梢から玄徳のすがたを見つけて、
「おゝ、それへ来たのは、県尉玄徳ではないか。公の部下の張飛が、酒に酔つて、わしをかくの如く殺さうとしてゐる。どうか早く止めてくれ。もしわしを助けてくれたなら、この儘(まゝ)、張飛の罪も不問にし、おん身には、帝に急使を立てゝ前の訴状を停(とゞ)め、代るに充分な恩爵を以て酬(むく)ゆるであらう」
と、叫んで又
「はやく助けてくれ」
と何度も悲鳴を繰返した。
其(その)いやしい言葉を聞くと、張飛の暴を制しかけてゐた玄徳も、かへつて止(とゞ)める意志を邪(さまた)げられた。
けれど、彼は、いかに醜汚(シウヲ)な人間であらうとも、勅命をうけて下つた天子の使(つかひ)である。玄徳は、叱咤して、
「止(や)めぬかつ張飛」
と、彼の手から柳の枝を奪ひ、その枝をもつて張飛の肩を一つ打つた。
玄徳に打たれた事は初めてである。さすがの張飛も、はつと顔色を醒まして棒立ちになつた。もちろん不平満々たる色をあらはしてではあつたが。
玄徳は、柳の幹の縄を解いて、督郵のからだを大地へ下(おろ)してやつた。すると、それまで、是とも非ともいはず黙つて見ていた関羽が、ツと馳け寄つて来て、
「長兄。お待ちなさい」
「なぜ」
「そんな人間を助けてやつたところで、所詮、むだな事です」
「何をいふ。わしはこの人間から利を得るために助けようとするのではない。たゞ、天子の御名を畏(おそ)るゝのみだ」
「わかつてをります。しかしさういふお気持も、いつたい何処(どこ)に通じませうか。前には、身命を賭して、大功を立てゝをられながら、わづか一県の尉に封ぜられたのみか、今又、督郵のごとき腐敗した中央の吏に、最大の侮辱をうけ、黙つてゐれば、罪もなき罪に墜し入れられようとして居るではありませんか」
「……ぜひもない」
「ぜひもない事はありません。こんな不法は蹴とばすべきです。先頃からそれがしもつら[つら]思ふに、枳棘叢中(キキヨクサウチウ)鸞鳳(ランホウ)の栖(す)む所に非ず——と昔から云ひます。棘(いばら)や枳(からたち)のやうなトゲの木の中には良い鳳(とり)は自然栖んでゐない——といふのです。われ[われ]は栖む所を誤りました。如(し)かずいちど身を退いて、別に遠大の計をはかり直さうではありませんか」
関羽には、時々、訓(をし)へられる事が多い。やはり学問に於(おい)ては、彼が一日の長を持つてゐた。
玄徳はいつも聴くべき言はよく聴く人であつたが、今も、彼の言をじつと聞いてゐるうちに、大きく頷いて、
「さうだ。……いゝ事を云つてくれた。我れ栖む所を誤てり」
と、胸にかけてゐた県尉の印綬を解いて、督郵に云つた。
「卿は、民を害する賊吏、今その首(かうべ)を斬つて、これに梟(か)けるはいと易いことながら、恥を思はぬ悲鳴を聞けば、畜類にも不愍(フビン)は生じる。あはれな犬猫と思うて助けてとらせる。——そしてこの印綬は、卿に託しておく。我れ今、官を捨てゝ去る。中央へよろしくこの趣(おもむき)を取次ぎたまへ」
そして張飛、関羽のふたりを顧みて、
「さ。行かう」
と、風の如くそこを去つた。
霏々(ヒヽ)と散りしいた柳葉(リウエフ)の地上に督郵は、まだ何か、苦しげに喚いてゐたが、玄徳等の姿が遠くなる迄(まで)、前に懲りて、近づいて宥(いたは)り助ける者もなかつた。
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次回 → 岳南の佳人(一)(2023年12月7日(木)18時配信)