第一回 → 黄巾賊(一)
前回はこちら → 十常侍(四)
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私館へ帰つても、彼は、怏々(アウ[アウ])と楽しまぬ顔いろであつた。
「県の土民は、みな貧しい者ばかりだ。しかも一定の税は徴収して、中央へ送らなければならぬ。その上、何で巡察の勅使や、大勢の随員に、彼等の満足するやうな賄賂を贈る餘裕があらう。賄賂も土民の汗あぶらから出さねばならぬに、よく他の県吏には、そんな事ができるものだ」
玄徳は、嘆息した。
次の日になつても、玄徳のはうから何の贈り物もこないので、督郵は
「県吏をよべ」
と、他の吏人(やくにん)を呼びつけ
「尉玄徳は、不埒な漢(をとこ)である。天子の宗族などと僭称してをるのみか、こゝの百姓共から、いろいろと怨嗟の声を耳にする。すぐ帝へ奏聞して、御処罰を仰ぐから、汝は、県吏を代表して、訴状を認(したゝ)めろ」
と、云つた。
玄徳の徳に服してこそはゐるが、玄徳に何の落度も考へられない県の吏は、恐れわなゝくのみで、答へも知らなかつた。
すると、督郵も重ねて、
「訴状を書かんか、書かねば汝も同罪と見なすぞ」
と、脅した。
やむなく、県の吏は、有りもしない罪状を、督郵のいふ儘(まゝ)に並べて、訴状に書いた。督郵は、それを都へ急送し、帝の沙汰を待つて、玄徳を厳罰に処せんと称した。
この四、五日。
「どうも面白くねえ」
張飛は、酒ばかりのんでゐた。
さう飲んでばかりゐるのを、玄徳や関羽に知れると、意見されるし、又、この数日、玄徳の顔いろも、関羽の顔いろも、甚(はなは)だ憂鬱なので、彼はひとり
「……どうも面白くねえ」
を繰返して、何処(どこ)で飲むのか、姿を見せず飲んでゐた。
その張飛が、熟柿(ジユクシ)のやうな顔をして、驢に乗つて歩いてゐた。町中の者は、県の吏人(やくにん)なので、驢と行きちがふと、丁寧に礼をしたが、張飛は、驢の上から落ちさうな恰好して、居眠つてゐた。
「やい。どこまで行く気だ」
眼をさますと、張飛は、乗つてゐる驢にたづねた。驢は、てこてこと、軽い蹄(ひづめ)をたゞ運んでゐた。
「おや、何だ?」
役所の門前をながめると、七、八十名の百姓や町の者が、土下座して、何か喚(わめ)いたり、頭を地へすりつけたりしてゐた。
張飛は、驢を降りて
「みんな、何(ど)うしたんだ。おまへ等、何を役所へ泣訴してをるんだ」
と、どなつた。
張飛のすがたを見ると、百姓たちは、声をそろへて云つた。
「旦那はまだ何も御存じないんですか。勅使さまは、県の吏人に、訴状を書かせて、都へさし送つたと申しますに」
「何の訴状をだ」
「日頃、わし等が、お慕ひ申している、尉の玄徳さまが、百姓虐(いぢ)めなさるとか、苛税をしぼり取つて、私腹を肥(こや)しなすつてゐるとか、何でも、二十ヶ条も罪をかき並べて、都へその訴状が差送(サソウ)され、お沙汰が来次第に、罰せられるとうはさに聞きましたで……。わし等、百姓共は、玄徳さまを、親のやうに思つてゐるので、皆の衆と打揃うて、勅使さまへおすがりに来たところ、下吏(したやく)たちに叩き出され、この通り、役所の門まで閉められてしまうたので、ぜひなくかうして居るとこで御座りまする」
聞くと、張飛は、毛虫のやうな眉をあげて、閉めきつてある役館の門をはつたと睨みつけた。
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次回 → 打風乱柳(ダフウランリウ)(一)(2023年12月4日(月)18時配信)
(なお、日曜日については夕刊が休刊のため、配信はありません。)