第一回 → 黄巾賊(一)
前回はこちら → 十常侍(一)
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めづらしく帝のお側には誰も居なかつた。
帝は、玉座から云はれた。
「張郎中。けふは何か、朕に、折入つて懇願あるといふ事だから、近臣はみな遠ざけておいたぞ。気がねなく思ふ事を申すがよい」
張均は、階下に拝跪して
「帝の御聡明を信じて、臣張均は今日こそ、敢て、お気に入らぬ事をも申しあげなければなりません。照々として、公明な御心をもて、暫時、お聴きくださいまし」
「なんぢや」
「ほかでもありませんが、君側の十常侍等の事に就(つい)てです」
十常侍ときくと、帝のお眸(ひとみ)はすぐ横へ向いた。
御気色がわるい——
張均には分つていたが、こゝを冒(おか)して真実の言をすゝめるのが、忠臣の道だと信じた。
「臣が多くを申上げないでも御聡明な帝には、疾(と)くお気づきと存じますが、天下も今、漸(やうや)く平静に帰らうとして、地方の乱賊も終熄したところです。この際、どうか君側の奸を掃ひ、御粛正を上(かみ)よりも示して、人民たちに暗天の憂へなからしめ、業に安んじ、御徳政を謳歌するやうに、御賢慮仰ぎたくぞんじまする」
「張郎中。なんでけふに限つて、突然そんな事を云ひ出すのか」
「いや、十常侍らが政事を紊(みだ)して帝の御徳を晦(くら)うし奉つてゐる事はけふの事ではありません。私のみの憂ではありません。天下万民の怨(うらみ)とするところです」
「怨?」
「はい。たとへば、こんどの黄巾の乱でも、その賞罰には、十常侍等の私心が、いろ[いろ]働いてゐると聞いています。賄賂をうけた者には、功なき者へも官禄を与へ、然(しか)らざる者は、罪なくても官を貶(おと)し、いやもう、ひどい沙汰です」
「……」
帝の御気色は、いよ[いよ]曇つて見えた。けれど、帝は何も云はれなかつた。
十常侍といふのは、十人の内官の事だつた。民間の者は、彼等を宦官と称した。君側の権をにぎり後宮にも勢力があつた。
議郎張譲(チヤウジヤウ)。議郎趙忠(チヤウチウ)。議郎段珪(ダンケイ)。議夏輝(カキ)——などといふ十名が中心となつて、枢密に結束を作つてゐた。議郎とは、参議といふ意味の役である。だからどんな枢密の政事にもあづかつた。帝はまだお若くをられるし、さういふ古池のぬしみたいな老獪と曲者(くせもの)がそろつてゐるので、彼等が遂行しようと思ふ事は、どんな悪政でもやつて通した。
霊帝はまだ御若年なので、その悪弊に気づかれてゐても、如何(いかん)ともする術を御存じない。又、張均の苦諫に感動されても、何というお答(こたへ)も出なかつた。たゞ眼を宮中の苑(には)へ反(そ)らしてをられた。
「——遊ばしませ、御断行なさいませ。今がその時です。陛下、ひとへに、御賢慮をお決し下さいませ」
張均は、口を酸(す)くし、われとわが忠誠の情熱に、眦(まなじり)に涙をたゝへて諫言した。
遂には、玉座に迫つて、帝の御衣にすがつて、泣訴した。帝は、当惑さうに、
「では、張郎中、朕に、何(ど)うせいといふのか」
と、問はれた。
こゝぞと、張均は
「十常侍らを獄に下して、その首を刎(は)ね、南郊に梟(か)けて、諸人に罪文と共に示し給はれば、人心自(おのづか)ら平安となつて、天下は」
云ひかけた時である。
「だまれつ。——まづ汝の首より先に獄門に梟(か)けん」
と、帳(とばり)の蔭から怒つた声がして、それと共に、十常侍十名の者が躍り出した。みな髪(ハツ)を逆立て、眦をあげながら、張均へ迫つた。
張均は、あツと驚きの餘り昏倒してしまつた。
手当されて、後に、典医から薬湯をもらつて飲んだが、それを飲むと眠つたまゝ死んでしまつた。
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次回 → 十常侍(三)(2023年11月29日(水)18時配信)