第一回 → 黄巾賊(一)
前回はこちら → 十常侍(二)
****************************************************************
張均は、その時、そんな死に方をしなくても、帝へ忠諫したことを十常侍に聴かれてゐたから、必ずや、後に命を完(まつた)うする事はできなかつたらう。
十常侍も、以来
「油断してをると、とんでもない忠義ぶつた奴が現れるぞ」
と気がついたか、誡(いまし)め合つて、帝の周囲は元より、内外の政に亘(わた)つて、大いに警戒してゐるふうであつた。
それもあるし、帝御自身も、功ある者のうちに、恩賞にも洩れて不遇を喞(かこ)ち、不平を抑へてゐる者が尠(すくな)くないのに気がつかれたか、特に、勲功の再調査と、第二期の恩賞の実施とを沙汰された。
張均の事があつたので、十常侍も反対せず、むしろ自分等の善政ぶりを示すやうに、ほんの形ばかりな辞令を交付した。
その中に、劉備玄徳の名もあつた。
それによつて、玄徳は、中山府(チウザンフ)(河北省、定州)の安喜県(アンキケン)の尉(イ)といふ官職についた。
県尉といえば、片田舎の一警察署長といつたやうな官職にすぎなかつたが、帝命を以て叙せられた事であるから、それでも玄徳は、ふかく恩を謝して、関羽張飛を従へて、即座に、任地へ出発した。
勿論、一官吏となつたのであるから、多くの手兵をつれてゆく事は許されないし、必要もないので五百餘の手兵は、これを王城の軍府に託して、編入してもらひ、ほんの二十人ばかりの者を、従者として連れて行つたに過ぎなかつた。
その冬は、任地でこえた。
わづか四月ばかりしか経たないうちに、彼が、役についてから、県中の政治は大いに革(あらた)まつた。
強盗悪逆の徒は、影をひそめ、良民は徳政に服して、平和な毎日を楽しんだ。
「張飛も関羽も、自己の器量に比べては、今の小吏のするやうな仕事は不服だらうが、暫(しばら)くは、現在に忠実であつて貰ひたい。時節は焦心(あせ)つても求め難い」
玄徳は、時折二人をさう云つて慰めた。それは彼自身を慰める言葉でもあつた。
その代り、県尉の任についてからも、玄徳は、彼等を下役のやうには使はなかつた。共に貧しきに居り、夜も床を同じうして寝た。
するとやがて、河北の野に芽ぐみ出した春と共に
「天子の使(つかひ)この地に来る」
と、伝へられた。
勅使の使命は
「この度、黄巾の賊を平定したるに、軍功ありと詐(いつは)りて、政廟の内縁などたのみ、猥(みだ)りに官爵をうけ或(あるい)は、功ありと自称して、州都に私威を振舞ふ者多く聞え、能々(よくよく)、正邪を糺(ただ)さるべし」
といふ詔(みことのり)を奉じて下向(ゲカウ)して来た者であつた。
さういふ沙汰が、役所へ達しられてから間もなく、この安喜県へも、督郵といふ者が下つて来た。
玄徳等は、さつそく関羽張飛などを従へて、督郵の行列を、道に出迎へた。
何しろ、使は、地方巡察の勅を奉じて来た大官であるから、玄徳たちは、地に座して、最高の礼を執(と)つた。
すると、馬上の督郵は
「こゝか安喜県とは。ひどい田舎だな。何、県城はないのか。役所はどこだ。県尉を呼べ。今夜の旅館はどこか、案内させて、ひとまづそこで休息しよう」
と、云ひながら、傲然と、そこらを見廻した。
****************************************************************
次回 → 十常侍(四)(2023年12月1日(金)18時配信)
昭和14年(1939)12月1日(金)付の夕刊では、吉川英治「三国志」は休載でした。これに伴い明日11月30日(木)の配信はありません。