第一回 → 黄巾賊(一)
前回はこちら → 秋風陣(六)
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「賊には援(たすけ)もないし、城内の兵糧も徒(いたづ)らに敗戦の兵を多く容れたから、またゝく間に尽(つき)るであろう」
朱雋は、陣頭に立つて、賊の宛城の運命を、かく卜(うらな)つた。
朱雋軍六万は、宛城の周囲をとりまいて、水も漏らさぬ布陣を詰(つめ)た。
賊軍は
「やぶれかぶれ」
の策を選んだか、連日、城門をひらいて、戦を挑み、官兵賊兵、相互に夥(おびたゞ)しい死傷を毎日積んだ。
然(しか)しいかんせん、城内の兵糧はもう乏しくて、賊は飢渇に瀕して来た。そこで賊将韓忠は遂に、降使を立てゝ
「仁慈を垂れ給へ」
と、降伏を申し出た。
朱雋は、怒つて
「窮すれば、憐を乞ひ、勢を得れば、暴魔の威をふるふ、今日に至つては、仁慈も何もない」
と、降参の使者を斬つて、猶(なほ)も苛烈に攻撃を加へた。
玄徳は彼に諫めた。
「将軍、賢慮し給へ。昔、漢の高祖の天下を統(す)べたまひしは、よく降人を容れてそれを用ひた為(た)めといはれてゐます」
朱雋は、嘲笑(あざわら)つて
「ばかを云ひ給へ。それは時代に依る。あの頃は、秦の世が乱れて項羽のようながさつ者の私議暴論が横行して、天下に定まれる君主もなかつた時勢だろ、故に高祖は、讐(あだ)ある者でも、降参すれば、手なづけて用ふ事に腐心したのである。又、秦の乱世のそれと、今日の黄賊とは、その質がちがふ。生きる利なく、窮地に墜ちたが故に、降を乞うて来た賊を、愍(あは)れみをかけて、救(たす)けなどしたら、それはかへつて寇(あだ)を長じさせ、世道人心に、悪業を奨励するやうなものではないか。この際、断じて、賊の根を絶たねばいかん」
「いや。伺つてみると、たいへん御もつともです」
玄徳は、彼の説に伏した。
「では、攻めて城内の賊を、殲滅するとしてもです。かう四方、一門も遁(のが)れる隙間なく囲んで攻めては、城兵は、死の一図に結束し、恐(おそろ)しい最後の力を奮ひ出すに極(きま)つてゐます。味方の損害も夥しい事になりませう。一方の門だけは、逃口(にげくち)を与へておいて、三方から之(これ)を攻めるべきではありますまいか」
「なる程。その説はよろしい」
朱雋は、直(たゞち)に、命令を変更して、急激に攻めたてた。
東南(たつみ)の一門だけ開いて、三方から鼓(コ)をならし、火を放つた。
果(はた)して、城内の賊は、乱れ立つて一方へくづれた。
朱雋は、騎を飛ばして、乱軍の中に、賊将の韓忠を見かけ、鉄弓で射とめた。
韓忠の首を、槍に突き刺させて、従者に高く振り上げさせ
「征賊大将軍朱雋、賊徒の将、韓忠をかく葬つたり。われと名乗る者や猶(なほ)ある」
と、得意になつて呶鳴つた。
すると、残る賊将の趙弘と孫仲のふたりは
「あいつが朱雋か」
と、火炎の中を、黒驢を飛ばして、名のりかけて来た。
朱雋は、たまらじと、自軍のうちへ逃げこんだ。韓忠親分の讐と怒りに燃えた賊兵は、朱雋を追つて、朱雋の軍の真ん中を突破し、まつたくの乱軍を呈した。
賊の一に対して、官兵は十人も死んだ。朱雋につゞいて、官軍はわれがちに十里も後ろへ退却した。
賊軍は、気をもり返して、城壁の火を消し、ふたゝび四方の門を固くして
「さあいつでも来い」
と構へ直した。
その日の黄昏(たそが)れ、多く傷兵が、惨として夕月の野に横たはつてゐる官軍の陣営へ、何処から、来たか一彪(イツペウ)の軍馬が馳来(かけきた)つた。
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次回 → 秋風陣(八)(2023年11月24日(金)18時配信)
昭和14年(1939)11月24日(金)付の夕刊は、前日(配達日)の11月23日(木)が祝日(新嘗祭)のため休刊でした。これに伴い明日11月23日(木)の配信はありません。