第一回 → 黄巾賊(一)
前回はこちら → 秋風陣(五)
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伝令の告げるには、
「先に戦歿した賊将張宝の兄弟張梁(チヤウリヤウ)といふ者、地黄将軍の名を称し、久しくこの曠野の陣後にあつて、督軍してをりましたが、張宝すでに討たれぬと聞いて、遽(にはか)に大兵をひきまとめ、陽城へたて籠つて、城壁を高くし、この冬を守つて越えんとする策を取るかに見うけられます」
との事だつた。
朱雋は、聞くと、
「冬にかゝつては、雪に凍え、食糧の運輸にも、困難になる。殊(こと)に都聞(みやこきこ)えもおもしろくない。今のうちに攻め墜(おと)せ」
総攻撃の令を下した。
大軍は陽城を囲み、攻めること急であつた。併(しか)し、賊城は要害堅固を極め、城内には多年積んだ食物が豊富なので、一月餘も費やしたが、城壁の一角も奪(と)れなかつた。
「困つた。困つた」
朱雋は本営で時折ため息をもらしたが、玄徳は聞えぬ顔してゐた。
よせばいゝに、そんな時、張飛が朱雋へ云つた。
「将軍。野戦では、押せば退(ひ)くしで、戦ひ難(にく)いでせうが、こんどは、敵も城の中ですから、袋の鼠を捕るやうなものでせう」
朱雋は、まづい顔をした。
そこへ遠方から使(つかひ)が来て、新しい情報を齎(もたら)した。それも併(しか)し朱雋の機嫌をよくさせるものではなかつた。
曲陽の方面には、朱雋と共に、討伐大将軍の任を負つて下つてゐた董卓・皇甫嵩の両軍が、賊の大方張角の大兵と戦つてゐた。使はその方面の事を知らせに来たものだつた。
董卓と皇甫嵩のはうは、朱雋の云ふ所謂(いはゆる)武運がよかつたのか、七度戦つて七度勝つといつた按配であつた。ところへ又、黄賊の総帥張角が、陣中で病歿した為、総攻撃に出て、一挙に賊軍を潰滅させ、降人を収めること十五万、辻に梟(か)くるところの賊首何千、更に、張角を埋(い)けた墳(つか)を発掘(あば)いてその首級を洛陽へ上(のぼ)せ、
(戦果かくの如し)
と、報告した。
大賢良師張角と称していた首魁こそ、天下に満(みつ)る乱賊の首体である。張宝は先に討たれたりといつても、その弟に過ぎず、張梁猶(なほ)有りといつても、これもその一肢体でしかない。
朝廷の御感(ギヨカン)は斜めならず、
(征賊第一勲)
として、皇甫嵩を車騎将軍に任じ、益州の牧(ボク)に封ぜられ、その他恩賞の令を受けた者がたくさんある。わけても、陣中常に赤い甲冑を着て通つた武騎校尉曹操も、功に依つて、済南(サイナン)(山東省・黄河南岸)の相(セウ)に封じられたとの事であつた。
自分が逆境の中に、他人の栄達を聞いて、共に欣(よろこ)びを感じるほど、朱雋は寛度でない。彼は猶(なほ)、焦心(あせ)り出して、
「一刻もはやく、この城を攻め陥し、汝等も、朝廷の恩賞にあづかり、封土へ帰つて、栄達の日を楽しまずや」
と、幕僚をはげました。
勿論、玄徳等も、協力を惜(をし)まなかつた。攻撃に次ぐ攻撃を以(もつ)て、城壁に当り、さしも頑強な賊軍をして、眠るまもない防戦に疲れさせた。
城内の賊の中に、厳政(ゲンセイ)といふ男があつた。これは方針を更(か)へる時だと覚(さと)つたので、密かに朱雋に内通して置き、賊将張梁の首を斬つて、
「願はくば、悔悟(クワイゴ)の兵等に、王威の恩浴を垂れたまへ」
と、軍門に降つて来た。
陽城を墜(おと)した勢(いきほひ)で、
「更に、与党を狩り尽(つく)せ」
と、朱雋の軍六万は、宛城(湖北省・荊州)へ迫つて行つた。そこには、黄巾の残党・孫仲(ソンチウ)、韓忠(カンチウ)、趙弘(テウコウ)の三賊将がたて籠つてゐた。
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次回 → 秋風陣(七)(2023年11月22日(水)18時配信)