第一回 → 黄巾賊(一)
前回はこちら → 秋風陣(四)
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敵を前にしながら、わざとそんな所で、厳かな祈禱の儀式などしたのは、玄徳直属の義軍の中にも、張宝の幻術を内心怖れてゐる兵がたくさんゐるらしく見えたからであつた。
式が終ると、
「見よ」
玄徳は空を指して云つた。
「けふの一天には、風魔もない、迅雷もない。すでに、破邪の祈禱で、張宝の幻術は通力を失つたのだ」
兵は答へるに、万雷のやうな喊声(カンセイ)をもつてした。
関羽と張飛は、それと共に、
「それ、魔軍の砦(とりで)を踏み潰せ」
と軍を二手にわけて、峰づたひに張宝の本拠へ攻めよせた。
地公将軍の旗幟を立てゝ、賊将の張宝は、例に依つて、鉄門峡の寄手を悩ましに出かけてゐた。
すると、思はざる山中に、突然鬨(とき)の声があがつた。彼は、味方を振返つて、
「裏切り者が出たか」
と、訊ねた。
実際、さう考へたのは、彼だけではなかつた。裏切者々々々といふ声が、何処ともなく伝はつた。
張宝は、
「不埒(フラチ)な奴、何者か、成敗してくれむ」
と、そこの守りを、賊の一将にいひつけて、自身、わづかの部下を連れて、山谷(サンコク)の奥にある——ちょうど螺(ラ)の穴のような渓谷を、驢に鞭打つて帰つて来た。
すると傍(かたはら)の沢の密林から、一すぢの矢が飛んで来て、張宝のこめかみにぐざと立つた。張宝はほとばしる黒血(コクケツ)へ手をやつて、わツと口を開きながら矢を抜いた。然(しか)し、鏃(やじり)はふかく頭蓋の中に止(とど)まつて、矢柄だけしか抜けて来なかつた位(くらゐ)なので、途端に、彼の巨躯は、鞍の上から真つ逆さまに落ちてゐた。
「賊将の張宝は射止めたるぞ。劉玄徳、こゝに黄匪の大方張角の弟、地黄将軍を討ち取つたり」
次に、どこかで玄徳の大音声がきこえると、四方の山沢(サンタク)、みな鼓(コ)を鳴らし、奔激の渓流、挙(こぞ)つて鬨を揚げ、草木みな兵と化(な)つたかと思はれた。玄徳の兵は、一斉に衝いて出で、あわてふためく張宝の部下をみなごろしにした。
山谷の奥からも、同時に黒煙濛々(モウ[モウ])とたち昇つた。張飛か、関羽の手勢か、本拠の砦に、火を放(つ)けたものらしい。
上流から流れて来る渓水(たにみづ)は、みるまに紅の奔河と化した。山吠え、谷叫び、火は山火事となつて、三日三晩燃えとほした。
首馘(くびき)る数一万餘、黒焦(くろこげ)となつた賊兵の死体幾千幾万なるを知らない。殲滅戦の続けらるゝこと七日餘り、玄徳は、赫々たる武勲を負つて朱雋の本営へ引揚げた。
朱雋は、玄徳を見ると、
「やあ、足下(ソクカ)は実に運がいゝ。戦(いくさ)にも、運不運があるものでな」
と、云つた。
「はゝあ、さうですか。ひと口に、武運と云ふ事もありますからね」
玄徳は、何の感情にも動かされないで、軽く笑つた。
朱雋は、更に云ふ。
「自分のひきうけてゐる野戦のはうは、まだ一向(イツカウ)勝敗がつかない。山谷の賊は、ふくろの鼠とし易いが、野陣の敵兵は、押せばどこ迄(まで)も、逃げられるので弱るよ」
「御もつともです」
それにも、玄徳は唯(たゞ)、笑つて見せたのみであつた。
然るところ、茲(こゝ)に、先陣から伝令が来て、一つの異変を告げた。
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次回 → 秋風陣(六)(2023年11月21日(火)18時配信)