第一回 → 黄巾賊(一)
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敗軍を収めて、約二十里の外へ退(ひ)き、その夜、玄徳は、関羽、張飛のふたりと共に、帷幕のうちで軍議をこらした。
「残念だ。けふ迄(まで)、こんな敗北はした事がないが」
と、張飛がいふ。
関羽は、腕を拱(く)んでゐたが、
「朱雋の兵が、戦はぬうちから、あのやうに恐怖してゐる所を見ると、何か、あそこには不思議がある。張宝の幻術も、実際、ばかには出来ぬかも知れぬ」
と、呟いた。
「幻術の不思議は、わしには解けてゐる。それは、あの鉄門峡の地形にあるのだ。あの峡谷には、常に雲霧が立ちこめてゐて、その気流が、烈風となつて、峡門から麓へいつも吹いてゐるのだと思ふ」
これは玄徳の説である。
「成程」
と、二人とも初めて、さうかと気づいた顔つきだつた。
「だから少しでも天候の悪い日には、他の土地より何十倍も強い風が吹捲(ふきま)くる。この辺が、晴天の日でも、峡門には、黒雲(くろくも)が蟠(わだかま)り、砂礫が飛び、煙雨が降り荒んでゐる」
「はゝあ、大きに」
「好んで、それへ向つてゆくので、近づけばいつも、賊と戦ふ前に、天候と戦ふやうなものになる。張宝の地黄将軍(チクワウシヤウグン)とやらは、奸智に長(た)けてゐるとみえて、その自然の気象を、自己の妖術かの如く、巧みに使つて、藁人形の武者や、紙の魔形(マギヤウ)など降らせて、朱雋軍の愚(おろか)な恐怖を弄(もてあそ)んでゐたものであらう」
「さすがに、御活眼です。いかにも、それに違ひありません。けれど、あの山の賊軍を攻めるには、あの峡門から攻めかゝるほかありますまい」
「無い。——それ故に、朱雋はわざと、われわれを、この攻口へ当らせたのだ」
玄徳は、沈痛に云つた。
関羽、張飛の二人も、良い策もなく、唇(くち)をむすんで、陣の曠野へ眼をそらした。
折から仲秋の月は、満目の戦野(センヤ)に露をきらめかせ、二十里外の彼方に黒々と見える臥牛のやうな山岳のあたりは、味方を悩ませた悪天候も噓事(うそごと)のやうに、大気と月光の下に横たはつてゐた。
「いや、有る、有る」
突然、張飛が、自問自答して云ひ出した。
「攻口が、ほかに無いとは云はさん。長兄、一策があるぞ」
「どうするのか」
「あの絶壁を攀(よ)ぢ登つて、賊の豫測しない所から不意に衝(つ)きくづせば、何(なん)の造作もない」
「登れようか、あの断崖絶壁へ」
「登れさうに見える所から登つたのでは、奇襲にはならない。誰の眼にも、登れさうに見えない場所から登るのが、用兵の策といふものであらう」
「張飛にしては、珍しい名言を吐いたものだ。その通りである。登れぬものと極(き)めてしまふのは、人間の観念で、その眼だけの観念を超えて、実際に懸命に当つてみれば案外易々(やす[やす])と登れるやうな例はいくらもある事だ」
更に、三名は、密議を練つて、翌る日の作戦に備へた。
朱雋軍の兵、約半分の数に、夥(おびたゞ)しい旗や幟(のぼり)を持たせ、又、銅鑼や鼓を打ち鳴らさせて、きのふのように峡門の正面から、強襲するような態(テイ)を敵へ見せかけた。
一方、張飛、関羽の両将に、幕下の強者(つはもの)と、朱雋軍の一部の兵を率きつれた玄徳は、峡門から十里ほど北方の絶壁へひそかに這ひすすみ、惨澹たる苦心の下に、山の一端へ攀ぢ登ることに成功した。
そして猶(なほ)、士気を鼓舞するために、総(すべ)ての兵が山巓(サンテン)の一端へ登りきると、そこで玄徳と関羽は、厳かなる破邪攘魔の祈禱を天地へ向つて捧げるの儀式を行つた。
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次回 → 秋風陣(五)(2023年11月20日(月)18時配信)
(なお、日曜日については夕刊が休刊のため、配信はありません。)