第一回 → 黄巾賊(一)
前回はこちら → 秋風陣(一)
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先頃から河南の地方に、何十万とむらがつてゐる賊の大軍と戦つてゐた大将軍朱雋は、思ひのほか賊軍が手ごはいし、味方の死傷は夥(おびたゞ)しいので、
「いかゞはせん」
と、内心煩悶して、苦戦の憂ひを顔に刻んでゐた所だつた。
そこへ
「潁川から広宗へ向つた玄徳の隊が、形勢の変化に、途中から引つ返して来て、たゞ今、着陣いたしましたが」
と、幕僚から知らせがあつた。
朱雋はそれを聞くと、
「やあ、それはよい所へ来た。すぐ通せ、失礼のないやうに」
と、前とは、打つて変つて、鄭重に待遇した。陣中ながら、洛陽の美酒を開き、料理番に牛など裂かせて
「長途、おつかれであろう」
と、歓待した。
正直な張飛は、前の不快もわすれて、すつかり感激してしまひ、
「士は己を知る者の為に死すである」
などゝ酔つた機嫌で云つた。
だが歓待の代償は義軍全体の生命に近いものを求められた。
翌日。
「早速だが、豪傑にひとつ、打破つていたゞきたい方面がある」
と、朱雋は、玄徳等の軍に、そこから約三十里ほど先の山地に陣取つている頑強な敵陣の突破を命じた。
否む理由はないので
「心得た」
と、義軍は、朱雋の部下三千を加へて、そこの高地へ攻めて行つた。
やがて、山麓の野に近づくと天候が悪くなつた。雨こそ降らないが、密雲低く垂れて、烈風は草を飛ばし、沼地の水は霧になつて、兵馬の行くてを晦(くら)くした。
「やあ、これは又、賊軍の大将の張宝が、妖気を起して、われらを皆ごろしにすると見えたるぞ。気をつけろ。樹の根や草につかまつて、烈風に吹きとばされぬ用心をしたがいゝぞ」
朱雋からつけてよこした部隊から、誰言ふとなく、こんな声が起つて、恐怖は忽(たちま)ち全軍を蔽(おほ)つた。
「ばかなつ」
関羽は怒つて
「世に理のなき妖術などがあらうか。武夫(ブフ)たるものが、幻妖の術に怖れて、木の根にすがり、大地を這ひ、戦意を失ふとは、何たるざまぞ。すゝめや者共。関羽の行く所には妖気も避けよう」
と大声で鼓舞したが
「妖術には敵はぬ。あたら生命をわざ[わざ]墜(おと)すやうなものだ」
と、朱雋の兵は、なんと云つても、前進しないのである。
聞けば、この高地へ向つた官軍は、これ迄(まで)にも何度攻めても、全滅になつてゐるといふのであつた。黄巾賊の大方師張角の弟にあたる張宝は、有名な妖術つかひで、それがこの高地の山谷の奥に陣取つてゐる為であるといふ。
さう聞くと張飛は
「妖術とは、外道魔物のする業(わざ)だ。天地闢(ひら)けて以来、まだ嘗(かつ)て方術者が天下を取つたためしはあるまい。怖(を)ぢる心、惧(おそ)れる眼(まなこ)、顫(わなゝ)く魂を惑はす術を、妖術とは云ふのだ。怖れるな、惑ふな。——進まぬやつは、軍律に照らして斬り捨てるぞ」
と、軍のうしろにまわつて、手に蛇矛(ジヤボウ)を抜(ぬき)はらひ、督戦に努めた。
朱雋の兵は、敵の妖術にも恐怖したが張飛の蛇矛にはなほ恐れて、やむなくわつと、黒風へ向つて前進し出した。
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次回 → 秋風陣(三)(2023年11月17日(金)18時配信)