第一回 → 黄巾賊(一)
前回はこちら → 檻車(かんしや)(八)
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潁川の地へ行き着いてみると、そこには既に官軍の一部隊しか残つてゐなかつた。大将軍の朱雋も皇甫嵩も、賊軍を追い狭(せば)めて、遠く河南の曲陽や宛城(ヱンジヤウ)方面へ移駐してゐるとのことであつた。
「さしも旺(さかん)だつた黄巾賊の勢力も、洛陽の派遣軍のために、次第に各地で討伐され、そろそろ自解しはじめたやうですな」
関羽が云ふと、
「つまらない事になつた」
と、張飛は頻(しき)りと、今のうちに功を立てねば、何日(いつ)の時か風雲に乗ぜん、と焦心(あせ)るのであつた。
「——義軍何(なん)ぞ小功を思はん。義胆(ギタン)何ぞ風雲を要せん」
劉玄徳は、独り云つた。
雁(かり)の列のやうに、漂泊の小軍隊は又、南へ向つて、旅をつゞけた。
黄河を渡つた。
兵たちは、馬に水を飼つた。
玄徳は、黄いろい大河に眼をやると、憶(おも)ひを深くして、
「ああ、悠久なる哉(かな)」
と、つぶやいた。
四、五年前に見た黄河もこの通りだつた。怖(おそ)らく百年、千年の後も、黄河の水は、この通りにあるだらう。
天地の悠久を思ふと、人間の一瞬が儚(はかな)く感じられた。小功は思はないが、頻りと、生きてゐる間の生甲斐と、意義ある仕事を残さんとする誓願が念じられてくる。
「この畔(ほとり)で、半日も凝(じつ)と若い空想に耽つてゐた事がある。——洛陽船から茶を購(あがな)はうと思つて」
茶を思へば、同時に、母が憶はれてくる。
この秋、いかに在(お)はすか。足の冷えや、持病が出ては来ぬだらうか。御不自由はどうあろうか。
いや[いや]母は、そんな事すら忘れて、ひたすら、子が大業を為す日を待つてをられるであらう。それと共に、いかに聡明な母でも、実際の戦場の事情やら、又実地に当る軍人同士のあひだにも、常の社会と変らない難しい感情やら争ひやらあつて、なか[なか]武力と正義の信条一点張りでは、世に出られない事などは、お察しもつくまい。御想像にも及ぶまい。
だから以来、何のよい便りもなく、月日を空しく送つてゐる子をお考へになると、
(阿備(アビ)は、何をしてゐるやら)
と、さだめし腑がひない者と、焦(じ)れツたく思つてお居(ゐ)でになるに相違ない。
「さうだ。せめて、体だけは無事な事でも、お便りして置かうか」
玄徳は、思ひつめて、騎の鞍を下ろし、その鞍に結(ゆ)ひつけてある旅具の中から、翰墨(カンボク)と筆を取出して、母へ便りを書きはじめた。
駒に水を飼つて、休んでゐた兵たちも、玄徳が箋葉(センエウ)に筆を把(と)つてゐるのを見ると、
「おれも」
「吾も」
と、何か書きはじめた。
誰にも、故郷がある。姉妹兄弟(シマイケイテイ)がある。玄徳は思ひやつて、
「故郷へ手紙をやりたい者は、わしの手許(てもと)へ持つて来い。親のある者は、親へ無事の消息をしたがよいぞ」
と、云つた。
兵たちは、それぞれ紙片や木皮へ何か書いて持つて来た。玄徳はそれを一嚢(イチナウ)に納めて、実直な兵を一人撰抜し、
「おまへは、この手紙の嚢(ふくろ)を携へて、それぞれの郷里の家へ、郵送する役目に当れ」
と、路費を与へて、直(す)ぐ立たせた。
そして落日に染まつた黄河を、騎と兵と荷駄とは、黒いかたまりになつて、浅瀬は徒渉(トセウ)し、深い所は筏(いかだ)に棹(さをさ)して、対岸へ渡つて行つた。
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次回 → 秋風陣(二)(2023年11月16日(木)18時配信)