第一回 → 黄巾賊(一)
前回はこちら → 檻車(かんしや)(七)
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官軍に取つては、大功を立てたのだ。董卓に取つては、生命(いのち)の親だと云つてもよいのだ。
然るに!
何ぞ、遇するの、無礼。
士を遇する道を知らぬにも程がある。
「…………」
玄徳も、張飛と関羽も、董卓のうしろ姿を見送つたまゝ、茫然としてゐた。
「うぬつ」
奮然と、張飛は、彼のかくれた幕(とばり)の奥へ、躍り入らうとした。
獅子のやうに、髪を立つて。
そして剣を手に。
「あつ、何処へ行く」
玄徳は、驚いて、張飛のうしろから組み止めながら
「こらつ、又、わるい短慮を出すか」
と、叱つた。
「でも。でも」
張飛は、怒り熄(や)まなかつた。
「——ちツ、畜生つ。官位がなんだつ。官職がない者は、人間でないやうに思つてやがる。馬鹿野郎ツ。民力があつての官位だぞ。賊軍にさへ、蹴ちらされて、逃げまはつて来やがつたくせに」
「これツ、鎮まらんか」
「離してくれ」
「離さん。関羽々々。なぜ見てゐるか、一緒に、張飛を止めてくれい」
「いや関羽、止めてくれるな。おれはもう、堪忍の緒を切つた。——功を立てゝ恩賞もないのは、まだ我慢もするが、何だ、あの軽蔑したあいさつは。——人を雑軍かとぬかし居(を)つた。私兵かと、鼻であしらひやがった。——離してくれ、董卓の素ツ首を、この蛇矛(ジヤボウ)で一太刀にかツ飛ばして見せるから」
「待て。……まあ待て、……腹が立つのは、貴様ばかりではない。だが、小人(セウジン)の小人ぶりに、いちいち腹を立てゝゐたひには、迚(とて)も大事は為せぬぞ。天下、小人に満ちてゐる時だ」
玄徳は、抱き止めた儘(まま)、声をしぼつて諭した。
「しかし、何であらうと、董卓は皇室の武臣である。朝臣を殺逆すれば、理非にかゝはらず、叛逆の賊子といはれねばならぬ。それに、董卓には、この大軍があるのだ。われわれも共に、こゝで斬死(きりじに)しなければならぬ。——聞きわけてくれ張飛。われわれは、犬死する為に、起(た)つたのではあるまいが」
「……ち、ち、ちく生ツ」
張飛は、床を、大きく沓(くつ)で踏み鳴らして、男泣きに、声をあげて泣いた。
「口惜しい」
彼は、坐りこんで、まだ泣いてゐた。この忍耐をしなければ、世の為に戦へないのか、義を唱へても、遂に為す事はできないのかと考へると悲しくなつてくるのだつた。
「さ。外へ出よう」
赤ンぼをあやすやうに、玄徳と関羽の二人して、彼を、左右から抱き起こした。
そして、その夜
「こんな所に長居してゐると、いつ又、張飛が虫を起さないとも限らないから」
と、董卓の陣を去つて、手兵五百と共に、月下の曠野を、蕭々と、風を負つて歩いた。
わびしき雑軍。
そして官職のない将僚。
一軍の漂泊(さすらひ)は、かうして再び続いた。夜毎に、月は白く小さく、曠野は果(はて)なく又露が深かつた。
渡り鳥が、大陸を赴(ゆ)く。
もう秋なのだ。
いちどは郷里の涿県へ回(かへ)らうとしたが、それも残念でならないし、餘りに無意義——といふ関羽の意見に、張飛も、将来は何事も我慢しようと同意したので、玄徳を先頭にしたこの渡り鳥にも似た一軍は、また、以前の潁川地方に在る黄匪討伐軍本部——朱雋の陣地へと志して行つたのであつた。
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次回 → 秋風陣(一)(2023年11月15日(水)18時配信)