第一回 → 黄巾賊(一)
前回はこちら → 檻車(かんしや)(六)
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「何事か」
玄徳は聞き耳たてゝいたが、四山に谺(こだま)する銅鑼、兵鼓(ヒヤウコ)の響きに
「張飛。物見せよ」
と、すぐ命じた。
「心得た」
と張飛は駒を飛ばして、山のはうへ向つて行つたが、暫(しばら)くすると戻つて来て、
「広宗の方面から逃げくづれて来る官軍を、黄巾の総帥張角の軍が、天公将軍と書いた旗を進め、勢ひに乗つて、追撃して来るのでござる」
と、報告した。
玄徳は、驚いて、
「では、広宗の官軍は、総敗北となつたのか。——罪なき盧植将軍を、檻車に囚(とら)へて、洛陽へ差立てたりなどした為に、忽(たちま)ち、官軍は統制を失つて、賊にその虚をつかれたのであらう」
と、嘆じた。
張飛は、むしろ小気味よげに、
「いや、そればかりでなく、官軍の士風そのものが、長い平和に狎(な)れ、気弱にながれ、思ひ上がつてゐるからだ」
と関羽へ云つた。
関羽は、それには答へず、
「長兄。何(ど)うしますか」
と玄徳へ計つた。
玄徳は、躊躇(ためらひ)なく、
「皇室を重んじ、秩序を紊(みだ)す賊子を討ち、民の安寧を護らんとは、われ[われ]の初めからの鉄則である。官の士風や軍紀を司る者に、面白からぬ人物があるからというて、官軍そのものゝ潰滅するのを、拱手傍観してゐてもよいものではない」
と、即座に、援軍に馳せつけて、賊の追撃を、山路で中断した。そしてさんざんにこれを悩ましたり、又、奇策をめぐらして、張角大方師の本軍まで攪乱した上、勢(いきほひ)を挽回した官軍と合体して、五十里あまりも賊軍を追つて引揚げた。
広宗から敗走して来た官軍の大将は、董卓といふ将軍だつた。
辛(から)くも、総敗北を盛返して、ほつと一息つくと、将軍は、幕僚にたづねた。
「いつたい、彼(か)の山嶮で、不意にわが軍へ加勢し、賊の後方を攪乱した軍隊は、いづれ味方には相違あるまいが、何処(どこ)の部隊に属する将士か」
「さあ。どこの隊でせう」
「汝等も知らんのか」
「誰も辨(わきま)へぬようです」
「然(しか)らば、その部将に会つて、自身訊ねてみよう。これへ呼んで来い」
幕僚は、直(たゞち)に、玄徳たちへ董卓の意をつたへた。
玄徳は、左将関羽、右将張飛を従へて、董卓の面前へ進んだ。
董卓は、椅子を与へる前に、三名の姓名をたづねて、
「洛陽の王軍に、卿等のごとき勇将がある事は、まだ寡聞にして聞かなかつたが、いつたい諸君は、何といふ官職に就かれてをるのか」
と、身分を糺(ただ)した。
玄徳は、無爵無官の身をむしろ誇るやうに、自分等は、正規の官軍ではなく、天下万民のために、大志を奮ひ起して立つた一地方の義軍であると答へた。
「……ふうむ。すると、涿県の楼桑村から出た私兵か。つまり雑軍といふわけだな」
董卓の応対ぶりは、言葉つきからして違つて来た。露骨な軽蔑を鼻先に見せていふのだつた。しかも
「——あゝさうか。ぢやあ我軍に従(つ)いて、大いに働くがよいさ。給料や手当は、いづれ沙汰させるからな」
と同席するさへ、自分の估券(コケン)に関はるやうに、董卓は云ふとすぐ帷幕のうちへ隠れてしまつた。
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次回 → 檻車(かんしや)(八)(2023年11月14日(火)18時配信)