第一回 → 黄巾賊(一)
前回はこちら → 檻車(かんしや)(四)
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慰めようにも慰めることばもなく、鉄格子を隔てた盧植の手を握りしめて、玄徳も共にたゞ悲嘆の涙にくれてゐたが、
「いや先生、御胸中はお察しいたしますが、いかに世が末になつても、罪なき者が罰しられて、悪人や奸吏が恣(ほしいまゝ)に、栄耀を全うする事はありません。日月も雲に蔽(おほ)はれ、山容も烟霧に真の象(かたち)を現さない時もあります。そのうちに、御冤罪は拭はれて、又聖代に祝しあう日もありませう。どうか、時節をお待ちください。お体を大切に、恥をしのんで、凝(じつ)とこゝは、御辛抱ください」
と励ました。
「ありがたう」
と、盧植もわれに回(かへ)つて
「思はぬ所で、思はぬ人に会つた為、つい心も弛(ゆる)み、不覚なや涙を見せてしまうた。……わしなどはすでに老朽の身だが、頼むのは、貴公たち将来のある青年へだ。……どうか億生(オクシヤウ)の民草の為に、頼むぞ劉備」
「やります。先生」
「あゝ然(しか)し」
「何ですか」
「わしの如き、老年になつても、まだ佞人の策に墜ち、檻車に生き恥を曝されるやうな不覚をするのだ。汝等(おことら)は殊(こと)に年も若いし、世の経験に浅い身だ。くれ[ぐれ]も、平時の処世に細心でなければ危(あやふ)いぞ。戦を覚悟の戦場よりも、心をゆるめがちの平時のはうが、どれほど危険が多いか知れない」
「御訓誡、肝に銘じておきます」
「では、餘り長くなつても、又迷惑がかゝるといけないから——」
と、盧植が、早く立去れかしと、玄徳を眼で急(せ)き立てゝゐると、それ迄(まで)、檻車の横に佇んでゐた張飛が、突然
「やあ長兄。罪もなき恩師が、獄府へ引かれて行くのを、このまゝ見過すという法があらうか。今のはなしを聞くにつけ、又先頃からの鬱憤も重(かさ)んでをる。もはや張飛の堪忍の緒は断(き)れた。——守護の官兵共を、みなごろしにして、檻車を奪ひ盧植様をお助けしようではないか」
と、大声でいひ放ち、一方の関羽を顧みて
「兄貴、何(ど)うだ」
と、相談した。
耳こすりや、眼まぜで諜(しめ)し合わすのではない。天地へ向つて呶鳴るのである。いくら背中を向けて見ぬ振(ふり)をしてゐる官兵でも、それには総立(そうだち)になつて色めかざるを得ない。然(しか)し、張飛の眼中には、蠅が舞ひ出した程にもなく
「何を黙つてをるのか。長兄等は、官兵が怖いのか。義を見て為さざるは勇なきなり。よしつ、それでは、俺ひとりでやる。何の、こんな虫籠のやうな檻車一つ」
いきなり張飛は、その鉄格子に手をかけて、猛虎のやうに、揺すぶり出した。
いつも餘り大きな声も出さないし、滅多に顔いろも変へない玄徳が、それを見ると
「張飛!何をするかツ」
と、大喝して
「かりそめにも、朝命の科人(とがにん)へ、汝、一野夫の身として、何を為さんとするか。師弟の情は忍び難いが、猶(なほ)、私情に過ぎない。いやしくも天子の命とあらば、地を嚙んでも伏すべきである。世々の道に反(そむ)かずといふ事は、抑(そも[そも])、われらの軍律の第一則であった。強(た)つて、乱暴を働くに於いては、天子の臣に代り、又、わが軍律に照らして、劉玄徳が、まづ汝の首を刎(は)ねん。——如何に張飛、なほ𤢖(さは)ぐや」
と、彼(か)の名剣の柄をにぎつて、眦(まなじり)を紅(くれなゐ)に裂き、この人にしてこの血相があるかと疑はれるばかりな声で叱りつけた。
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次回 → 檻車(かんしや)(六)(2023年11月11日(土)18時配信)