第一回 → 黄巾賊(一)
前回はこちら → 転戦(六)
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「やよ、それに来る豪傑。貴軍は抑(そも)、敵か味方か」
玄徳のそばから大音で、関羽が彼方へ向つて云つた。
先でも、玄徳たちを
「官軍か賊軍か?」
と疑つて居たやうに、ぴたと一軍の前進を停めて
「これは洛陽より南下した五千騎の官軍である。汝等(なんぢら)こそ、黄匪に非ずや」
と、呶鳴り返して来た。
聞くと玄徳は、左将軍関羽、右将軍張飛だけを両側に従へて、兵を後方に残したまゝ数百歩駒をすすめ
「戦場とて、失礼ないたした。それがしは涿県楼桑村の草莽より起つて、いさゝか奉公を志し、討賊の戦場に参加してをる義軍の将、劉備玄徳といふ者です。それにおいである豪傑は、そも何人(なんぴと)なりや。願はくば御尊名をうかゞひたい」
云ふと、紅の旗、紅の鎧、紅の鞍に跨がつてゐる人物は、玄徳の会釈を、馬上でうけながら微笑をたゝへ
「御ていねいな挨拶。それへ参つて申さん」
と、赤夜叉の如く、総(すべ)て赤く鎧つた旗本七騎につゝまれて、玄徳の間近まで馬をすゝめて来た。
近々と、その人物を見れば。
年はまだ若い。肉薄く色白く、細眼長髯(サイガンチヤウゼン)、胆量(タンリヤウ)人にこえ、その眸には、智謀測り知れないものが見える。
声静(こゑしづか)に、名乗つて云ふ。
「われは沛国譙郡(江蘇省徐州の西南・沛県)の生れで、曹操(サウ[サウ])字は孟徳(マウトク)、小字(こあざな)は阿瞞(アマン)、また吉利(キツリ)ともいふ者です。すなわち漢の相国曹参(サウサン)より二十四代の後胤にして、大鴻臚曹崇(サウスウ)が三男たり。洛陽にあつては、官騎都尉(クワンキトイ)に封ぜられ、今、朝命によつて、五千餘騎にて馳せ来り、幸(さいはひ)にも、貴軍の火攻の計に乗じて、逃ぐる賊を討ち、賊徒の首を討つことその数を知らないほどです。——ひとつお互に両軍声をあはせて、天下の泰平を一日もはやく地上へ呼ぶため、凱歌をあげませう」
「結構です。では、曹操閣下が矛をあげて、両軍へ発声の指揮をしてください」
玄徳が謙遜していふと、
「いやそれは違ふ。こよひの勝軍(かちいくさ)はひとへに貴軍の謀略と働きにあるのですから、玄徳殿が音頭をとるべきです」
と、曹操も譲りあふ。
「では、一緒に、指揮の矛を揚げませう」
「成程。それならば」
と、曹操も従つて、両将は両軍のあひだに轡(くつわ)をならべ、そして三度、鬨の声をあはせて野をゆるがした。
野火は燃えひろがるばかりで賊徒の住む尺地も餘さなかつた。賊の大軍は、殆(ほとん)ど、秋風に舞ふ木の葉のやうに四散した。
「愉快ですな」
曹操は、顧みて云つた。
兵をまとめて、両軍引揚げの先頭に立ちながら、玄徳は、彼と駒を並べ、彼と親しく話すかなりな時間を得た。
彼の最前の名乗りは、あながち鬼面(キメン)人を脅(おど)すものではなかつた。玄徳は正直に、彼の人物に尊敬を払つた。晋文匡扶(シンブンキャウフ)の才なきを笑ひ、趙高王莽(テウカウワウマウ)の計策(はかり)なきを嘲つて時々、自らの才を誇る風はあるが、兵法は呉子孫子をそらんじ、学識は孔孟の遠き弟子を以(もつ)て任じ、話せば話すほど、深みもあり広さもある人物と思はれた。
それにひきかへて、本軍の総大将朱雋は、かへつて玄徳の武功をよろこばないのみか、玄徳が戻つてくると、すぐかう命令した。
「せつかく、潁川にまとまつてゐた賊軍を四散させてしまったので、必ず彼らは、大興山の友軍や広宗の張角軍と合体して、盧植将軍のはうを、今度はうんと悩ますにちがひない。——貴公はすぐ広宗へ引つ返して、再び、盧植軍に加勢してやり給へ。今夜だけ、馬を休めたら、すぐ発足するがよからう」
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次回 → 檻車(かんしや)(一)(2023年11月6日(月)18時配信)
なお、昭和14年(1939)11月5日(日)付の夕刊では、吉川英治「三国志」は休載でした。これに伴い明日11月4日(土)および夕刊が休刊となる日曜日分(11月5日(日))の配信はありません。ご諒承ください。