第一回 → 黄巾賊(一)
前回はこちら → 転戦(四)
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【前回迄の梗概】後漢の建寧元年のことである。涿県楼桑村の青年劉備は行商の帰途当時全国を席巻してゐた黄巾賊に襲はれたが、県城の士張飛に領主の姫不要と一緒に助け出される。貧しい中に留守を守つてゐた劉備の老母は劉家の祖先は漢の景帝の末である事を告げて家運復興を促す。
さうした或日、劉備は図らずも張飛と再会、互に本心を打明ける。張飛の親友で寺子屋の先生をしてゐる雲長関羽も加つて、挙兵の盟を結ぶと共に、劉備を義兄として三人の義兄弟の約束をする。
今や大丈夫の誓は成つた。次ぐは兵と軍資金。関羽の壮烈な檄文に忽ち集る数百の兵。軍資金と馬は運よくも通りかゝつた行商人張世平、蘇双から譲り受けた。
兵糧成つた劉備の軍は先づ初陣に涿郡の太守劉焉を助けて青州大興山附近の城を敗り、続いて青州の太守の乞ひに応じてこれを救ひ三度転じて広宗の野に向つた。此処では劉備の少年時代の師盧植が黄匪の首領張角と苦戦中である。
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討匪将軍の印綬を帯びて、遠く洛陽の王府から、黄河口の広宗の野に下り、五万の官軍を率ゐて軍務に就(つい)てゐた中郎将盧植は
「なに。劉備玄徳といふ者がわしを訪ねて来たと? ……はてな、劉、玄徳、誰だらう」
しきりに首をひねつてゐたが、まだ思ひ出せない容子だつた。
戦地と云つても、さすが漢朝の征旗を奉じて来てゐる軍の本営だけに、将軍の室は、大きな寺院の中央を占め、境内から四門の外郭一帯にかけて、駐屯してゐる兵馬の勢威は物々しいものであつた。
「はつ。——確(たしか)に、劉備玄徳と仰(おつ)しやつて、将軍にお目にかゝりたいと申して来ました」
外門から取次いできた一人の兵はさう云つて、盧将軍の前に、直立の姿勢を取つてゐた。
「一人か」
「いゝえ、五百人も連れてゞあります」
「五百人」
啞然とした顔つきで
「ぢやあ、その玄徳とやらは、そんなにも自分の手勢を連れて来たのか」
「左様です。関羽、張飛、といふ二名の部将を従へて、お若いやうですが、立派な人物です」
「はてなあ?」
猶更(なほさら)、思い当らない容子であつたが、取次の兵が、
「申し残しました。その仁は、涿県楼桑村の者で、将軍がそこに隠遁されてゐた時代に、読書(よみかき)のお教(をしへ)をうけた事があるとか云つてをりました」
「ああ!では蓆売(むしろうり)の劉少年かもしれない。いや、さう云へば、あれからもう十年以上も経つてをるから、よい若人になつてゐる年頃だらう」
盧植は、遽(にはか)に、なつかしく思つたとみえ、すぐ通せと命令した。勿論、連れてゐる兵は外門に駐(と)め、二人の部将は、内部の廂(ひさし)まで入ることを許してゞある。
やがて玄徳は通つた。
盧植は、一目(ひとめ)見て、
「おゝ、やはりお前だつたか。変つたなう」
と、驚いた目をした。
「先生にも、其後は、赫々と洛陽に御武名の聞え高く、蔭ながら欣(よろこ)んでをりました」
玄徳は、さう云つて、盧植の沓(くつ)の前に退(さが)り、昔に変らぬ師礼を執つた。
そして彼は、自分の素志を述べた上、願はくば、旧師の征軍に加はつて、朝旗の下に報国の働きを尽したいと云つた。
「よく来てくれた。少年時代の小さい師恩を思ひ出して、わざ[わざ]援軍に来てくれたとは、近頃うれしい事だ。その心もちはすでに朝臣であり、国を愛する士の持つところのものだ。わが軍に参加して、大いに勲功をたてゝくれ」
玄徳は、参戦をゆるされて、約二ケ月ほど、盧植の軍を援けてゐたが、実戦に当つてみると、賊のはうが、三倍も多い大軍を擁してゐるし、兵の強さも、比較にならないほど、賊のはうが優勢だつた。
その為、官軍のはうが、かへつて守勢になり、徒(いたづら)に、滞陣の月日ばかり長びいてゐたのだつた。
「軍器は立派だし、服装も剣も華やかだが、洛陽の官兵は、どうも戦意がない。都に残してゐる女房子供の事だの、美味い酒だの、そんな事ばかり思ひ出してゐるらしい」
張飛は、時々、そんな不平を鳴らして、
「長兄。こんな軍に交つてゐると、われ[われ]迄(まで)が、だらけてしまふ。去つて、他に大丈夫の戦ふ意義のある戦場を見つけませう」
と、玄徳へ云つたが、玄徳は、師を歓ばせておきながら、師へ酬いる事もなく去る法はないと云つて、肯(き)かなかつた。
そのうちに、盧植のはうから、折入つて、軍機に亘(わた)る一つの相談がもちかけられた。
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次回 → 転戦(六)(2023年11月2日(木)18時配信)