第一回 → 黄巾賊(一)
前回はこちら → 転戦(三)
****************************************************************
時はすでに夏だつた。
青州の野についてみると、賊数万の軍は、すべて黄の旗と、八卦の文を證(しるし)とした幡(ハン)をかざして、その勢、天日をも侮つてゐた。
「何ほどの事があらう」
と、玄徳も、先頃の初陣で、難なく勝つた手ごゝろから、五百餘騎の先鋒で、当つてみたが、結果は大失敗だつた。
一敗地にまみれて、あやふく全滅をまぬがれ、三十里も退いた。
「これはだいぶ強い」
玄徳は、関羽へ計つた。
関羽は
「寡を以(もつ)て、衆を破るには、兵法によるしかありません」
と一策を献じた。
玄徳は、よく人の言を用ひた。そこで、総大将の鄒靖の陣へ、使(つかひ)を立て、謀事(はかりごと)をしめしあはせて、戦(いくさ)を立て直した。
まづ、総軍のうち、関羽は約千の兵をひつさげて、右翼となり、張飛も同数の兵力を持つて、丘の陰に潜んだ。
本軍の鄒靖と玄徳とは、正面からすゝんで、敵の主勢力へ、総攻撃の態を示し、頃あひを計つて、わざと、潮のごとく逃げ乱れた。
「追へや」
「討てや」
と、図にのつて、賊の大軍は、陣形もなく追撃して来た。
「よしつ」
玄徳が、駒を返して、充分誘導して来た敵へ当り始めた時、丘陵の陰や、曠野の黍(きび)の中から、夕立雲のやうに湧いて出た関羽、張飛の両軍が、敵の主勢力を、完全にふくろづゝみにして、みなごろしにかゝつた。
太陽は、血に煙つた。
草も馬の尾も、血のかゝらない物はなかつた。
「それつ、今だ」
逃げる賊軍を追つて、そのまゝ味方は青州の城下まで迫つた。
青州の城兵は
——援軍来る!
と知ると、城門をひらいて、討つて出た。なだれ打つて、逃げて来た賊軍は、城下に火を放ち、自分の放(つ)けた炎を墓場として、殆(ほとん)ど、自滅するかのやうな敗亡を遂げてしまつた。
青州の太守龔景は
「もし、卿等の来援がなければ、この城は、すでに今日は賊徒の享楽の宴会場になつてゐたであらう」
と、人々を重く賞して、三日三晩は、夜も日も、歓呼の楽器と万歳の声に盈(み)ちあふれてゐた。
鄒靖は、軍を収めて
「もはや、お暇(いとま)せん」
と、幽州へ引揚げて行つたが、その際、劉玄徳は、鄒靖に向つて
「ずっと以前——私の少年の頃ですが、郷里の楼桑村に来て、暫(しばら)くかくれてゐた盧植(ロシヨク)といふ人物がありました。私は、その盧植先生に就(つい)て、初めて文を学び、兵法を説き教へられたのです。その後先生はどうしたかと、時折、思ひ出すのでしたが、近頃うはさに聞けば、盧植先生は官に仕へて、中郎将に任ぜられ、今では勅令をうけて、遠く広宗(くわうそう)(山東省)の野に戦つてゐると聞きます。——しかもそこの賊徒は、黄匪の首領張角将軍直属の正規兵だといふことですから、さだめし御苦戦と察しられるので、これから行つて、師弟の旧恩、いさゝか御加勢してあげたいと思ふのです」
と、心のうちを洩らした。
そして、自分はこれから、広宗の征野へ、旧師の軍を援けに赴くから、幽州の城下へ帰つたら、どうか、その旨を、悪しからず太守へお伝へねがひたいと、伝言を頼んだ。
元より義軍であるから、鄒靖も引止めはしない。
「然(しか)らば、貴下の手勢のみ率ゐて、兵糧その他の賄(まかなひ)、心のまゝにし給へ」
と、武人らしく、あつさり云つて別れた。
****************************************************************
次回 → 転戦(五)(2023年11月1日(水)18時配信)