第一回 → 黄巾賊(一)
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大将玄徳に会つてみるとまだ年も廿歳台(はたちだい)の青年であるが、寡言沈厚のうちに、どこか大器の風さへ窺(うかゞ)へるので、太守劉焉は、大いに好遇に努めた。
なお、素姓を問へば、漢室の宗親にして、中山靖王の裔孫との事に、
「さもあらん」
と、劉焉はうなづく事頻(しき)りで猶更(なほさら)、親しみを改め、左右の関、張両将を併せて、心から敬ひもした。
折ふし。
青州大興山の附近一帯(山東省済南の東)に跳梁してゐる黄巾賊五万以上といはれる勢力に対して、太守劉焉は、家臣の校尉鄒靖(スウセイ)を将として、大軍を附与し、遽(にはか)に、それへ馳け向はせた。
関羽と、張飛は、それを知るとすぐ、玄徳へ向つて、
「人の歓待は、冷めやすいもので御座る。歓宴長く停(とどま)るべからずです。手初めの出陣、進んで御加勢にお加はりなさい」
と、すゝめた。
玄徳は、
「自分もさう考へてゐた所だ。早速、太守へ進言しよう」
と、劉焉に会つて、その旨を申し出ると劉焉も欣(よろこ)んで、校尉鄒靖の先陣に参加する事をゆるした。
玄徳の軍五百餘騎は、初陣とあつて意気すでに天をのみ、日ならずして大興山の麓へ押しよせてみたところ、賊の五万は、嶮に拠つて、利戦を策し、山の襞や谷あひへ虱(しらみ)のごとく長期の陣を備へてゐた。
時、この地方の雨期をすぎて、すでに初夏の緑草豊(ゆたか)であつた。
合戦長きに亘(わた)らんか、賊は、地の利を得て、奇襲縦横にふるまひ、諸州の黄匪、連絡をとつて、一斉に後路を断ち、征途の味方は重囲のうちに殲滅の厄にあはんも測りがたい。
玄徳は、さう考へたので、
「いかに張飛、関羽。太守劉焉をはじめ、校尉鄒靖も、われ等の手なみいかにと、その実力を見んとしてをるに違ひない。すでに、味方の先鋒たる以上、徒(いたづ)らに、対峙して、味方に長陣の不利を招くべからずである。挺身、賊の陣近く斬入つて、一気に戦ひを決せんと思ふがどうであらう」
二人へ、計ると、
「それこそ、同意」
と、すぐ五百餘騎を、鳥雲に備へ立て、山麓まぢかへ迫つてから遽(にはか)に鼓(こ)を鳴らし諸声(もろごゑ)あげて決戦を挑んだ。
賊は、山の中腹から、鉄弓を射、弩(ド)をつるべ撃ちして、容易に動かなかつたが、
「寄手は、多寡のしれた小勢のうへに、国主の正規兵とはみえぬぞ、どこかそこらから狩集めて来た烏合の雑軍。みなごろしにしてしまへ」
賊の副将鄧茂(トウモ)といふ者、かう号令を下すや否、柵(さく)を開いて、山上から逆落しに騎馬で馳け降りて来、
「やあやあ、稗糠(ひえかす)を舐めて生きるあはれな郷軍(ガウグン)の百姓兵ども。官軍の名にまどはされて死骸の堤を築きに来りしか。愚(おろか)なる権力の楯につかはるゝを止めよ。汝等(なんぢら)、槍をすて、馬を献じ、降を乞ふなれば、わが将、大方程遠志(テイヱンシ)どのに申しあげて、黄巾を賜はり、肉食させて、世を楽しみ、その痩骨(やせぼね)を肥えさすであらう。否といはゞ、即座に包囲殲滅せん。耳あらば聞け、口あらば答へよ。——如何(いか)に、如何に!」
と、呼ばはつた。
すると、寄手の陣頭より、おうと答へて、劉玄徳、左右に関羽、張飛をしたがへて、白馬を緑野の中央へすゝめて来た。
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次回 → 転戦(三)(2023年10月30日(月)18時配信)
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