第一回 → 黄巾賊(一)
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それより前に、関羽は、玄徳の書を携へて、幽州涿郡(河北省・保定府)の大守劉焉(リウエン)の許(もと)へ使(つかひ)してゐた。
太守劉焉は、何事かと、関羽を城館に入れて、庁堂で接見した。
関羽は、礼を施して後、
「太守には今、士を四方に求めらるゝと聞く。果して然(しか)りや」
と、訊ねた。
関羽の威風は、堂々たるものであつた。劉焉は、一見して、是(これ)尋常人に非ずと思つたので、その不遜を咎めず、
「然り。諸所の駅路に高札を建てしめ、士を募ること急なり。卿(キヤウ)も亦(また)、檄に応じて来れる偉丈夫なるか」
と、云つた。
そこで関羽は、
「さん候(さうらふ)。この国、黄賊の大軍に攻蝕せらるゝこと久しく、太守の軍、連年に疲敗し給ひ、各地の民倉は、挙げて賊の毒手にまかせ、百姓蒼生(ヒヤクセイサウセイ)みな国主の無力と、賊の暴状に哭かぬはなしと承(うけたまは)る」
敢(あへ)て、媚びず惧(おそ)れず、かう正直に云つてから更に重ねて、
「われ等(ら)恩を久しく領下にうけて、この秋(とき)をむなしく逸人(イツジン)として草廬に閑(カン)を偸(ぬす)むを潔(いさぎよ)しとせず、同志張飛其他二百餘の有為の輩(ともがら)と団結して、劉玄徳を盟主と仰ぎ、太守の軍に入つて、いさゝか報国の義をさゝげんとする者でござる。太守寛大、よくわれ等(ら)の義心の兵を加へ給ふや否や」
と、述べ、終りに、玄徳の手書を出して、一読を乞うた。
劉焉は、聞くと、
「この秋(とき)にして、卿等赤心の豪傑等、劉焉の微力に援助せんとして訪ねらる、將(まさ)に、天祐の事ともいふべきである。何ぞ、拒むの理があらうか。城門の塵を掃き、客館に旗飾を施して、参会の日を待つであらう」
と云つて、非常な歓びやうであつた。
「では、何月何日に、御城下まで、兵を率(ひき)ゐて参らん」
と、約束して関羽は立帰つたのであるが、その折、はなしの序(ついで)に、義弟の張飛が、先頃、楼桑村の附近や市(いち)の関門などで、事の間違ひから、太守の部下たる捕吏や役人などを殺傷したが、どうか其罪は免(ゆる)されたいと、一口断(ことわ)つておいたのである。
そのせゐか、あれつきり、市の関門からも、捕吏の人数はやつて来なかつた。いやそれのみか、豫(あらかじ)め、太守のはうから命令があつたとみえ、劉玄徳以下の三傑に、二百餘の郷兵が、突然、楼桑村から涿郡の府城へ向つて出発する際には、関門のうへに小旗を立て、守備兵や役人は整列して、その行を鄭重に見送つた。
それと、眼をみはつたのは、玄徳や張飛の顔を見知つてゐる市の雑民たちで、
「やあ、先に行く大将は、蓆売(むしろうり)の劉さんぢやないか」
「その側(そば)に、馬に騎(の)つて威張つて行くのは、よく猪(ゐのこ)の肉を売りに出てゐた呑んだくれの浪人者だぞ」
「成程。張だ、張だ」
「あの肉売(にくうり)に、わしは酒代の貸(かし)があるんだが、弱つたなあ」
などゝ群集のあひだから嘆声をもらして、見送つてゐる酒売(さかうり)もあつた。
義軍はやがて、涿郡の府に到着した。道々、風を慕つて、日月の旗下に馳せ参じる者もあつたりして、府城の大市へ着いた時は、総勢五百を算(かぞ)へられた。
太守は、直(たゞち)に、玄徳等(ら)の三将を迎へて、その夜は、居館で歓迎の宴を張つた。
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次回 → 転戦(二)(2023年10月28日(土)18時配信)