第一回 → 黄巾賊(一)
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張世平に、さう指摘されてみると、関羽は、自分等の仲間に、大きな缺陥(ケツカン)のあるのを見出した。
経営といふ事であつた。
自分は元より、張飛にも劉玄徳にも、経済的な観念は至つてない。武人銭を愛さずといつたやうな思想が甚(はなは)だ古くから頭の隅に有る。経済といへばむしろ卑しみ、銭といへば横を向くを以(もつ)て清廉の士とする風が高い。一箇の人格にはそれも高風と仰ぎ得るが、国家の大計となればそれでは不具を意味する。
一軍を持てばすでに経営を思はねばならぬ。武力ばかりで膨らまうとする軍は暴軍に化しやすい。古来、理想はあつても、その為、暴軍と堕(ダ)し、乱賊と終つた者、史上決して尠(すくな)くない。
「いや、いゝ事を聞かしてくれた。劉玄徳様にも、大いに、その辺の事をはなして貰ひたいものだ」
関羽は、正直、教へられた気がしたのである。一商人のことばと雖(いへど)も、これは将来の大切な問題だと考へついた。
軈(やが)て、楼桑村に着く。
関羽は直ぐ張世平と蘇双のふたりを、劉玄徳の前へつれて来た。勿論、玄徳も張飛も、張の好意を聞いて非常によろこんだ。
張は五十頭の馬匹を、無償で提供するばかりでなく、玄徳に会つてから玄徳の人物を更に見込んで、それに加ふるに、駿馬に積んでゐた鉄一千斤と、百反の獣皮織物と、金銀五百両を挙げて皆、
「どうか、軍用の費に」
と、献上した。
その際も、張は云つた。
「最前も、途々(みち[みち])、申しました通り、手前はどこ迄(まで)も、利を道とする商人です。武人に武道あり、聖賢に文道あるごとく、商人にも利道があります。御献納申しても、手前はこれを以(もつ)て、義心とは誇りません。その代り、今日さし上げた馬匹金銀が、十年後、廿年後には、莫大な利を生むことを望みます。——たゞその利は、自分一個で飽慾(ホウヨク)しようとは致しません。困苦の底にゐる万民にお頒(わか)ちください。それが私の希望であり、又私の商魂と申すものでございます」
玄徳や関羽は、彼の言を聞いて大いに感じ、どうかしてこの人物を自分等の仲間へ留め置きたいと考へたが、張は、
「いやどうも私は臆病者で、迚(とて)も戦争なさる貴方(あなた)がたの中にゐる勇気はございません。何か又、お役に立つ時には出て来ますから」
と云つて、倉皇(ソウクワウ)、何処ともなく立ち去つてしまつた。
千斤の鉄、百反の織皮(シヨクヒ)、五百両の金銀、思ひがけない軍費を獲て、玄徳以下三人は、
「これぞ天の御援助」
と、いやが上にも、心は奮ひ立つた。
早速、近郷の鍛冶工(カヂコウ)をよんで来て、張飛は、一丈何尺といふ蛇矛(じやぼこ》を鍛(う)つてくれと註文し、関羽は重さ何十斤という偃月刀を鍛へさせた。
雑兵の鉄甲、盔(かぶと)、槍、刀なども併せて誂(あつら)へ、それも日ならずして出来てきた。
日月(ジツゲツ)の旗幟(キシ)。
飛龍の幡(ハン)。
鞍(くら)、鏃(やじり)。
軍装はまづ整つた。
その頃漸(やうや)く人数も二百人ばかりになつた。
もとより天下に臨むには足りない急仕立の一小軍でしかなかつたが、張飛の教練と、関羽の軍律と、劉玄徳の徳望とは、一卒にまでよく行き亘(わた)つて、あたかも一箇の体のやうに、二百の兵は挙手踏足(キヨシユタフソク》、一音に動いた。
「では。——おつ母さん。行つて参ります」
劉玄徳は、一日(あるひ)、武装して母にかう暇(いとま)を告げた。
兵馬は、粛々、彼(か)の郷土から立つて行つた。劉玄徳の母は、それを桑の木の下からいつまでも見送つてゐた。泣くまいとしてゐる眼が湯の泉のやうになつてゐた。
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次回 → 転戦(一)(2023年10月27日(金)18時配信)