第一回 → 黄巾賊(一)
前回はこちら → 三花一瓶(さんくわいつぺい)(三)
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それは、雲長であつた。
童学草舎の村夫子(ソンフシ)も、武装すれば、こんなにも威風堂々と見えるものかと、眼をみはらせるばかりな、雲長の風貌であった。
「待て諸君」
乗りつけてきた鹿毛の鞍から跳び降りると、雲長は、兵の中へ割つて入り、そこに囲まれてゐる張飛と劉備を後(うしろ)にして、大手を拡げながら云つた。
「貴公等は、関門を守備する領主の兵と見うけるが、五十や百の小人数を以(もつ)て、一体何をなさらうとするのか。——この漢(をとこ)を召捕らうとするならば」
と、背後に居る張飛へ、顎を振向けて
「まづ五百か千の人数を揃へて来て、半分以上の屍(しかばね)はつくる覚悟がなければ縛(から)め捕る事はできまい。諸君は、この翼徳張飛といふ人間が、どんな力量の漢か知るまいが、曽(かつ)て、幽州の鴻家に仕へてゐた頃、重さ九十斤、長さ一丈八尺の蛇矛(ジヤボウ)を揮つて、黄巾賊の大軍中へ馳けこみ、屍山血河を作つて、半日の合戦に八百八屍(ハツピヤクハチシ)の死骸を積み、当時、張飛のことを、八百八屍将軍と綽名(あだな)して、黄匪を戦慄させたといふ勇名のある漢(をとこ)だ。——それを、素手(すで)にもひとしい小人数で、縛め捕らうなどは、檻へ入つて、虎と組むやうなもの、各各(おのおの)が皆、死にたいといふ願ひで、この漢へ関(かま)ふなら知らぬこと、命知らずな真似はやめたら何(ど)うだ。生命の欲しい者は足もとの明るいうちに帰れ。こゝは、かくいふ雲長にまかせて、一先(ひとま)づ引揚げろ」
雲長は、実に雄辯だつた。一息にこゝまで演説して、まつたく対手(あひて)の気をのんでしまひ、更に語をついで云つた。
「——かう云つたら諸公は、わしを何者ぞと疑ひ、又、巧みに張飛を逃がすのではないかと、疑心を抱くであらうが、左(サ)に非(あら)ず、不肖はかりそめにも、童学草舎を営み子弟の薫陶を任とし、常に聖賢の道を本義とし、国主を尊び、法令を遵守すべきことを、身にも守り、子弟に教へてゐる雲長関羽といふ者である。そして、これに居る翼徳張飛は、何をかくさう自身の義弟にあたる人間でもある。——だが、昨夜から今朝にかけて、張飛が官の吏兵を殺害し、関門を破り、酒の上で暴行したことを聞き及んで、宥(ゆる)し難(がた)く思ひ、この上多くの犠牲(いけにへ)を出さんよりは、義兄たるわが手に召捕りくれんものと、かくは身固め致して、官へ願い出(い)で、宙を馳せてこれへ駆けつけて来たわけでござる——。張飛はこの雲長が召捕つて、後刻、太守の県城へまで送り届けん。諸公は、こゝの事実を見とゞけて、その由、先へ御報告置きねがふ」
雲長は、沓(くつ)を回(めぐら)して、きつと張飛の方へ今度は向き直つた。
そして、大喝一声、
「こゝな不届き者つ」
と、鯨の鞭で、張飛の肩を打ちすゑた。
張飛は、憤(む)かつとしたやうな眼をしたが、雲長は更に、
「縛(バク)につけ」と、跳びかゝつて、張飛の両手を後(うしろ)へまはした。
張飛は、雲長の心を疑ひかけたが、より以上、雲長の人物を信じる心のはうが強かつた。
で——何か考へがある事だらうと、神妙に縄を受けて、大地へ坐つてしまつた。
「見たか、諸公」
雲長は再び、呆つ気にとられてゐる捕吏や兵の顔を見まはして、
「張飛は、後刻、それがしが県城へ直接参つて渡すから、諸公は先へこゝを引揚げられい。それとも猶(なほ)、この雲長を怪しみ、それがしの言葉を疑ふならば、ぜひもない、縄を解いて、この猛虎を、諸公の中へ放つが、何(ど)うだ」
云ふと、捕吏も兵も、逃げ足早く、物も云はず皆、退却してしまつた。
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次回 → 三花一瓶(さんくわいつぺい)(五)(2023年10月16日(月)18時配信)
(なお、日曜日については夕刊が休刊のため、配信はありません。)