第一回 → 黄巾賊(一)
前回はこちら → 三花一瓶(さんくわいつぺい)(二)
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張飛は、疑ひが嫌ひだ。疑はれる事はなほ嫌ひだ。雲長が、自分の言を信じてくれないのが、心外でならないのである。
だから劉備を連れて行つて、その人物を実際に示してやらう——かう考えたのも張飛らしい考へであつた。
然(しか)し、劉備は
「……さあ?」
と云つて、考へこんだ。
信じない者へ、強(し)ひて、自己を押つけて、信じろといふのも、好ましくないとする風だつた。
すると、廊のほうから、
「劉備。行つてお出でなさい」
彼の母が云つた。
母は、やはり心配になるとみえて、彼方で張飛のはなしを聞いてゐたものとみえる。
もつとも、張飛の声は、この家の中なら、どこに居ても聞えるほど大きかつた。
「やあ、お許し下さるか。母公のおゆるしが出たからには、さう劉君、何もためらふ事はあるまい」
促すと、母も共に
「時機といふものは、その時をのがしたら、又いつ巡つて来るか知れないものです。——何やら、今はその天機が巡つて来てゐるやうな気がするのです。些細な気持などに囚(とら)はれずに、お誘ひをうけたものなら、張飛どのにまかせて、行つて御覧なさい」
劉備は、母のことばに
「では、参らう」
と決心の腰を上げた。
二人は並んで、廊の方へ
「では、行つてきます」
礼をして、墻(かき)の外へ出て行つた。
すると、道の彼方から、約百人ほどの軍隊が、驀(まつ)しぐらに馳けて来た。騎馬もあり徒歩の兵もあつた。埃の中に、青龍刀の白い光りがつゝまれて見えた。
「あ……又来た」
張飛のつぶやきに、劉備は怪訝(いぶか)つて
「何です、あれは」
「城内の兵だらう」
「関門の兵らしいですね。何事があつたのでせう」
「多分、この張飛を、召捕らへに来たのかも知れん」
「え?」
劉備は、驚きを喫して、
「では、此方(こつち)へ対(むか)つて来る軍隊ですか」
「さうだ。もう疑ひない。劉君、あれをちよつと片づける間、貴公はどこかに休んで見物してゐてくれないか」
「弱りましたな」
「何、大した事はない」
「でも、州郡の兵隊を殺戮したらとてもこの土地には居られませんぞ」
云つてゐる間に、もう百餘名の州郡の兵は張飛と劉備を包囲してわい[わい]騒ぎ出した。
だが、容易に手は下しては来なかつた。張飛の武力を二度まで知つてゐるからであらう。けれど二人は一歩もあるく事は出来なかつた。
「邪魔すると、蹴殺すぞ」
張飛は、一方へこう呶鳴つて歩きかけた。わつと兵は退(ひ)いたが、背後から矢や鉄槍が飛んで来た。
「面倒つ」
又しても、張飛は持前の短気を出して、直ぐ剣の柄(つか)へ手をかけた。
——すると、彼方から一頭の逞しい鹿毛(かげ)を飛ばして、
「待てつ、待てえ」
と呼ばはりながら馳けて来る者があつた。州郡の兵も、張飛も、何気なく眼をそれへ馳せて振向くと、胸まである黒髯(コクゼン)を春風に弄(なぶ)らせ、腰に偃月刀の佩環を戞々(カツ[カツ])とひゞかせながら、手には緋総(ひぶさ)のついた鯨鞭(ゲイベン)を持った大丈夫が、その鞭を上げつゝ近づいて来るのであつた。
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次回 → 三花一瓶(さんくわいつぺい)(四)(2023年10月14日(土)18時配信)