第一回 → 黄巾賊(一)
前回はこちら → 三花一瓶(さんくわいつぺい)(一)
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少女は、犬に咬まれたわけではなかつた。
自分のうしろに、この辺で見た事もない、剣を佩(は)いた巨(おほ)きな髯漢(ひげをとこ)が、いつのまにか来てゐて、
「おい、小娘、劉備の家(うち)はどこだな」
と、訊ねたのだつた。
けれど、少女は、振向いてその漢(をとこ)を仰ぐと、姿を見たゞけで、胆をつぶし、きやつと云つて、逃げ走つてしまつたのであつた。
「あはゝゝ。わはゝゝ」
髯漢は、小娘の驚きを、滑稽に感じたのか、独りして笑つてゐた。
その笑ひ声が止むと一緒に、後(うしろ)の墻(かき)の内でも、はたと、蓆機(むしろばた)の音が止んでゐた。
墻といつても匪賊に備へるため此辺(このへん)では、総(すべ)てと云つてよい程、土民の家でも、土の塀か、石で組上げた物で出来てゐたが、劉家だけは、泰平の頃に建(たて)た旧家の慣はしで、高い樹木と灌木に、細竹を渡して結つてある生垣だつた。
だから、背の高い張飛は、首から上が、生垣の上に出てゐた。劉備の庭からもそれが見えた。
ふたりは顔を見合つて、
「おう」
「やあ」
と、十年の知己のやうに呼び合つた。
「なんだ、此処か」
張飛は、外から木戸口を見つけて這入(はい)つて来た。づし[づし]と地が鳴つた。劉家初まつて以来、こんな大きな跫音(あしおと)が、此家(このや)の庭を踏んだのは初めてだらう。
「きのふは失礼しました。君に会つた事や、剣の事を、母に話した所、母もゆうべは歓んで、夜もすがら希望に耽つて、語り明かしたくらゐです」
「あ。こちらが貴公の母者人(はゝじやひと)か」
「さうです。——母上、このお方です。きのふお目にかゝつた翼徳張飛といふ豪傑は」
「オオ」
劉備の母は、機(はた)の前からすつと立つて張飛の礼を享(う)けた。何(ど)ういふものか、張飛は、その母公の姿から、劉備以上、気高い威圧をうけた。
又、実際、劉備の母には自(おのづ)から備はつている名門の気品があつたのであらう。世の常の甘い母親のやうに、息子の友達だからといつて、やたらに小腰を屈(かゞ)めたりチヤホヤはしなかつた。
「劉備からおはなしは聞きました。失礼ですが、お見うけ申すからに頼もしい偉丈夫。どうか、柔弱なわたくしの一子を、これから叱咤して下さい。おたがひに鞭撻し合つて、大事を為しとげて下さい」
と、云つた。
「はつ」
張飛は、自然どうしても、頭を下げずには居られなかつた。長上に対する礼儀のみからではなかつた。
「母公。安心して下さい。きつと男児素志をつらぬいて見せます。——けれど茲(こゝ)に、遺憾なことが一つ起りました。で、実は御子息に相談に来たわけですが」
「では、男同士のはなし、わたしは部屋へ行つて居ませう。悠(ゆる)りとおはなしなさい」
母は、奥へかくれた。
張飛は、その後の床几へ腰かけて、実は——と、自分の盟友、いや義兄とも仰いでゐる、雲長の事を話し出した。
雲長も、自分が見込んだ漢(をとこ)で、何事も打明け合つてゐる仲なので、早速、ゆうべ訪れて、仔細を話したところ、意外にも、彼は少しも歓んでくれない。
のみならず、景帝の裔孫などゝは、むしろ怪しむべき者だ。そんな路傍のまやかし者と、大事を語るなどは、以(もつ)てのほかであると叱られた。
「残念でたまらない。雲長めは、さう云つて疑ふのだ。……御足労だが、貴公、これから拙者と共に、彼の住居まで行つてくれまいか。貴公といふ人間を見せたら、彼も恐らくこの張飛の言を信じるだらうと思ふから——」
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次回 → 三花一瓶(さんくわいつぺい)(三)(2023年10月13日(金)18時配信)