第一回 → 黄巾賊(一)
前回はこちら → 童学草舎(四)
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酔ふと酒くせの良くない張飛であつた。それと徒(いたづ)らに殺伐を好む癖は、二つの缺点であるとは、常常、雲長からもよく云はれてゐる事だつた。
鶏(とり)を裂いて、股を喰らふぐらゐな酒の上は、彼としては、いと穏当な藝である。——だが、捕吏や兵隊は驚いた。鶏の血は張飛の唇のまはりを染め、その炯々たる眼は、怖ろしく不気味であつた。
「何? ……乃公(おれ)を捕まへに来たと。……わはゝゝゝゝ。あべこべに取つ捉(つか)まへて、この通りになるなよ」
裂いた鶏を、眼の高さに、上げて示しながら、張飛は取囲む捕吏と兵隊を揶揄した。
捕吏は怒(いか)つて、
「それつ、酔どれに、愚図[愚図]云はすな。突殺してもかまはん。かかれつ」と、呶号した。
だが、兵隊たちは、近寄れなかつた。槍ぶすまを並べた儘(まま)、彼の周囲を巡りまはつたのみだつた。
張飛は、変な腰つきをして、犬みたいに突く這(ば)つた。それがよけいに捕吏や兵隊を恐怖させた。彼の眼が向つたはうへ飛(とび)かゝつて来る支度だらうと思つたからである。
「さあ、大きな鶏ども奴(め)、一羽一羽、ひねり潰すから逃げるなよ」
張飛は云つた。
彼の頭には未だ鶏を追ひかけ廻してゐる戯れが連続してゐて、捕吏の頭にも、兵隊の頭にも、鶏冠(とさか)が生えてゐるやうに見えてゐるらしかつた。
大きな鶏共は呆れ且つ怒り心頭に発して、
「野郎つ」
と、喚(わめ)きながら一人が槍で撲(なぐ)つた。槍は正確に、張飛の肩の辺へ当つたが、それは猛虎の髯に触れたも同じで、張飛の酔をして勃然と遊戯から殺伐へと転向させた。
「やつたな」
槍を引つ奪(た)くると、張飛はそれで、莚(むしろ)の豆殻(まめがら)でも叩くやうに、周りの人間を叩き出した。
叩かれた捕吏や兵隊も、初めて死にもの狂ひになり初めた。張飛は、面倒と云ひながら槍を虚空へ投げた。虚空へ飛んだ槍は、唸りを起したまゝ何処まで飛んで行つたか、何しろその附近には落ちて来なかつた。
鶏の悲鳴以上な叫喚が、一瞬のまに起つて、一瞬の間に熄(や)んでしまつた。
居酒屋のおやぢ、居合せた客、それから往来の者や、附近の人たちは皆、家の中や木陰に潜んで、どうなる事かと、息をころしてゐたが、餘りにそこが、急に墓場のやうな寂寞(しゞま)になつたので、そつと首を出して往来をながめると、噫(あゝ)——と誰も呻いたまゝで口もきけなかつた。
首を払われた死骸、血へどを吐いた死骸、眼のとび出してゐる死骸などが、惨として、太陽の下に曝されてゐる。
半分は、逃げたのだらう。捕吏も兵隊も、誰もゐない。
張飛は?
と見ると、これは又、悠長なのだ。村端(はづ)れのはうへ、後姿を見せて、寛々と歩いてゆく。
その袂に、春風はのどかに動いてゐた。酒のにおひが、遠くに迄(まで)、漂つて来るやうに——。
「たいへんだ。おい、はやくこの事を、雲長先生の家へ知らせて来い。彼(あ)の漢(をとこ)が、ほんとに、先生の舎弟なら、これは彼(あ)の先生も、ただでは済まないぞ」
居酒屋のおやぢは、自分のおかみさんへ喚(わめ)いた。だが、彼の妻は顫(ふる)へてゐるばかりで役に立たないので、遂に自分であたふたと、童学草舎の横丁へ、馳け蹌(よろ)めいて行つた。****************************************************************
次回 → 三花一瓶(さんくわいつぺい)(一)(2023年10月11日(水)18時配信)