第一回 → 黄巾賊(一)
前回はこちら → 童学草舎(三)
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むつとして、張飛は、雲長の家の門を出た。門を出ると、振向いて、
「ちえつ。何ていふ煮え切らない漢(をとこ)だらう」
と、門へ罵つた。
楽しまない顔色(ガンシヨク)は、それでも癒えなかつた。村の居酒屋へ来ると、ゆうべから渇いてゐたやうに、すぐ呶鳴つた。
「おいつ、酒をくれい」
朝の空腹(すきばら)に、斗酒を容(い)れて、張飛はすこし、眼のふちを赤黒く染めた。
やゝ気色が晴れて来たとみえて居酒屋の亭主に、冗戯(ジヨウギ)など云ひ出した。
「おやぢ、お前んとこの鶏(とり)は、おれに喰はれたがつて、おれの足元にばかり纏つて来やがる。喰つてもいゝか」
「旦那、召喰(めしあ)がるなら、毛をむしつて、丸揚げにしませう」
「さうか。さうしてくれゝば猶(なほ)いいな。あまり鶏めが慕つてくるから、生で喰(や)らうと思つてゐたんだが」
「生肉をやると腹に虫がわきますよ、旦那」
「ばかを云へ。鶏の肉と馬の肉には寄生虫は棲んでをらん」
「ヘエ。さうですか」
「体熱が高いからだ。総(すべ)て低温動物ほど寄生虫の巣だ。国にしてもさうだろう」
「へい」
「おや、鶏が居なくなつた。おやぢもう釜へ入れたのか」
「いえ。お代さへ戴けば、揚げてあるやつを直ぐお出しいたしますが」
「銭はない」
「ごじようだんを」
「ほんとだよ」
「では、御酒のお代のはうは」
「この先の寺の横丁を曲がると、童学草舎といふ寺子屋があるだらう。あの雲長のところへ行つて貰つて来い」
「弱りましたなあ」
「何が弱る。雲長という漢(をとこ)は、武人のくせに、金に困らぬやつだ。雲長はおれの兄哥(あにき)だ。弟の張飛が飲んで行つたといへば、払はぬわけにはゆくまい。——おいつ、もう一杯注(つ)いで来い」
亭主は、如才なく、彼を宥めておいて、その間に、女房を裏口からどこかへ走らせた。雲長の家へ問合せにやつたものとみえる。間もなく、帰つて来て何かさゝやくと、
「さうかい。ぢやあ飲ませても間違ひあるまい」
おやじは遽(にはか)に、態度を変へて、張飛の飲みたい放題に、酒を注ぎ鶏の丸揚も出した。
張飛は、丸揚を見ると
「こんな、鶏の乾物など、おれの口には合はん。おれは動いてゐる奴を喰ひたいのだ」
と、そこらに居る鶏を捉へようとして、往来まで追つて行つた。
鶏は羽ばたきして、彼の肩を跳び越えたり、彼の危(あやふ)げな股をくゞつて、逃げ廻つたりした。
すると、頻(しき)りに、村の軒並を物色して来た捕吏が、張飛のすがたを認めると、率(ひ)きつれてゐる十名ほどの兵へ遽に命令した。
「あいつだ。ゆうべ関門を破つた上、衛兵を殺して逃げた賊は。——要心してかゝれ」
張飛は、その声に
「何だろ?」
と、怪訝(いぶか)るやうに、あたりを酔眼で見まはした。一羽の若鶏が彼の手に脚をつかまへられて、けたたましく啼いたり羽ばたきを搏(う)つてゐた。
「賊つ」
「遁(のが)さん」
「神妙に縄にかゝれ」
捕吏と兵隊に取囲まれて、張飛は初めて、おれの事かと気づいたやうな面持(おももち)だつた。
「何か用か」
周りの槍を見まはしながら、張飛は、若鶏の脚を引つ裂いて、その股の肉を横に咥へた。
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次回 → 童学草舎(五)(2023年10月10日(火)18時配信)