第一回 → 黄巾賊(一)
前回はこちら → 童学草舎(二)
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「相(あひ)かはらずだなう」
雲長は笑つてばかりゐる。張飛がせきたてても、なか[なか]腰を上げさうもないので、張飛は、
「何が相かはらずだ」
と、やゝ突つかけるやうな言葉で反問した。
「だつて」
と、雲長は又笑ひ、
「これから楼桑村へゆけば、真夜半(まよなか)を過ぎてしまふ。初めての家を訪問するのに、餘り礼を知らぬ事に当らう。何も、明日でも明後日でもよいではないか。さあと云へば、それといふのが、貴公の性質だが、偉丈夫たる者は宜しくもつと沈重な態度であつて欲しいなあ」
折角、一刻もはやく欣(よろこ)んでもらはうと思つて来たのに、案外、雲長が気のない返辞なので、
「はゝあ。雲長。尊公はまだそれがしの話を、半信半疑で聞いてをるんぢやないか。それで、渋ツたい面(おもて)をしてをるのだらう。おれの事を、いつも短気といふが、尊公の性質は、むしろ優柔不断といふやつだ。壮図を抱く勇者たる者は、もつと事に当つて、果断であつて欲しいものだ」
「はゝゝゝゝ。やり返したな。然(しか)しおれは考へるな。何といはれても、もつと熟慮してみなければ、迂闊に、景帝の玄孫などゝいふ男には会へんよ。——世間に、よくあるやつだからな」
「そら、その通り、拙者の言を疑つてをるのではないか」
「疑ぐるのが常識で、疑はない貴公が元来、生一本の莫迦(バカ)正直といふものぢや」
「聞き捨(すて)にならんことを云ふ。おれが何(ど)うして莫迦正直か」
「ふだんの生活でも、のべつ人に騙されてをるではないか」
「おれはそんなに人に騙された覚えはない」
「騙されても、騙されたと覚らぬ程、尊公はお人が好いのだ。それだけの武勇をもちながら、いつも生活に困つて、窮迫したり流浪したり、皆、尊公の浅慮がいたす所である。その上、短気ときてゐるので、怒ると、途方もない暴をやる。だから張飛は悪いやつだと反対な誤解をまねいたりする。すこし反省せねばいかん」
「おい雲長。拙者は今夜、何も貴公の叱言(こごと)を聞かうと思つて、こんな夜中、やつて来たわけではないぜ」
「だが、貴公とわしとは、豫(かね)て、お互ひの大志を打明け、義兄弟の約束をし、わしは兄、貴公は弟と、固く心を結び合つた仲だ。——だから弟の短所を見ると、兄たるわしは、憂へずには居られない。まして、秘密の上にも秘密にすべき大事は、世間へ出て、二度や三度会つたばかりの漢(をとこ)へ、軽率に話したりなどするのは宜しくない事だ。そのうへ人の言をすぐ信じて、真夜中もかまはず直ぐ訪れようなんて……どうもさういふ浅慮(あさはか)では案じられてならん」
雲長は、劉備の家を訪問するなど以(もつ)てのほかだと云はぬばかりなのである。彼は、張飛に取つて、いはゆる義兄弟の義兄ではあるし、物分りもすぐれてゐるので、話が、理になつて来ると、いつも頭は上らないのであつた。
出ばなを挫かれたので、張飛はすつかり悄気(シヨゲ)てしまつた。雲長は気の毒になつて、彼の好きな酒を出して与へたが、
「いや、今夜は飲まん」
と、張飛はすつかり無口になつて、その晩は、雲長の家で寝てしまつた。
夜が明けると、学舎に通ふ村童が、わいわいと集まつて来た。雲長は、よく子供等(こどもら)にも馴(な)づまれてゐた。彼は、子ども等(ら)に孔孟の書を読んで聞かせ、文字を教へなどして、もう他念なき村夫子になりすましてゐた。
「又、そのうちに来るよ」
学舎の窓から雲長へ云つて、張飛は黙々とどこかへ出て行つた。
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次回 → 童学草舎(四)(2023年10月9日(月)18時配信)
(なお、日曜日については夕刊が休刊のため、配信はありません。)