第一回 → 黄巾賊(一)
前回はこちら → 童学草舎(一)
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物音に、望楼の守兵と、役人等(やくにんら)が出て見た時は、張飛はもう、二丈餘の城壁から、関外の大地へとび降りてゐた。
「黄匪だつ」
「間諜だ」
警鼓を鳴らして、関門の上下(うへした)では騒いでゐたが、張飛はふり向(むき)もせず、疾風のやうに馳けて行つた。
五、六里も来ると、一条の河があった。蟠桃河の支流である。河向うに約五百戸ほどの村が墨のやうな夜靄(よもや)のなかに沈んでゐる。村へはいつてみるとまださう夜も更けてゐないので、所々の家の灯皿に薄暗い明りがゆらいでゐる。
楊柳に囲まれた寺院がある。塀にそつて張飛は大股に曲がつて行つた。すると大きな棗の木が五、六本あつて、隠士の住居とも見える閑寂な庭があつた。門柱はあるが扉(と)はない。そしてそこの入口に、
童学草舎
といふ看板が懸かつてゐた。
「おういつ。もう寝たのか。雲長、雲長」
張飛は、烈しく、奥の家の扉をたゝいた。すると横の窓に、うすい灯が映(さ)した。帳(とばり)を揚げて誰か窓から首を出したやうであつた。
「だれだ」
「それがしだ」
「張飛か」
「おう、雲長」
窓の灯が、中の人影といつしよに消えた。間もなく、佇んでゐる張飛の前の扉がひらかれた。
「何用だ。今頃——」
手燭に照らされて其人の面が昼見るよりもはつきり見えた。まづ驚くべき事は、張飛にも劣らない背丈と広い胸幅であった。その胸には又、張飛よりも長い腮髯(あごひげ)がふつさりと垂れてゐた。毛の硬い者は粗暴で神経もあらいといふ事がほんとなら、雲長といふその者の髯のほうが、彼のものよりは軟かで素直でそして長いから、同時に張飛よりも此人のはうが智的にすぐれてゐると云へよう。
智的といえば、額もひろい。眼は鳳眼であり、耳朶(ジダ)は豊かで、総じて、体の巨(おほ)きいわりに肌目(きめ)こまやかで、音声もおつとりしてゐた。
「いや、夜中とは思つたが、一刻もはやく、尊公にも聞かせたいと思つて——欣(よろこ)びを齎(もたら)して来たのだ」
張飛のことばに、
「又、それを肴に、飲まうといふのぢやないかな」
「ばかをいへ。それがしを、さう飲んだくれとばかり思うてゐるから困る。平常の酒は、鬱懐をはらす為に飲むのだ。今夜はその鬱懐もいつぺんに散じて、愉快でならない吉報を携へて来たのだ。酒がなくても、ずゐぶん話せる事だ。あれば猶(なほ)いゝが」
「はゝゝゝゝ。まあ入れ」
暗い廊を歩いて、一室へ二人はかくれた。その部屋の壁には、孔子やその弟子たちの聖賢の図が懸かつてゐた。又、たくさんな机が置いてあつた。門柱に見えるとほり、童学草舎は村の寺子屋であり、主(あるじ)は村童の先生であつた。
「雲長——いつも話の上でばかり語つてゐた事だが、俺たちの夢がどうやらだんだん夢ではなく、現実になつて来たらしいぞ。実はけふ、前からも心がけてゐたが——かねて尊公にもはなしてゐた劉備という漢(をとこ)——それに偶然市で出会つたのだ。突つ込んだ話をしてみたところ、果して、凡(たゞ)の土民ではなく、漢室の宗族景帝の裔孫といふことが分つた。しかも英邁な青年だ。さあ、これから楼桑村の彼の家を訪れよう。雲長、支度はそれでよいか」
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次回 → 童学草舎(三)(2023年10月7日(土)18時配信)