第一回 → 黄巾賊(一)
前回はこちら → 橋畔風談(けうはんふうだん)(五)
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城壁の望楼で、今し方、鼓(コ)が鳴つた。
市は宵の燈(ひ)となった。
張飛は一度、市(いち)の辻へ帰つた。そして昼間展(ひろ)げてゐた猪(ゐのこ)の露店をしまひ、猪の股や肉切庖丁などを苞(つと)に括(くく)つて持つと又馳出した。
「やあ、遅かつたか」
城内の街から城外へ通じるそこの関門は、もう閉まつてゐた。
「おうい。開けてくれつ」
張飛は、望楼を仰いで、駄々つ子のやうに呶鳴(どな)つた。
関門の傍(かたはら)の小さい兵舎から五、六人ぞろ[ぞろ]出て来た。途方もない馬鹿者に訪れられたやうに、からかひ半分に叱りとばした。
「こらつ。何を喚いてをるか。関門が閉まつたからには、霹靂が墜ちても、開ける事ではない。何だ貴様は一体」
「毎日、城内の市(いち)へ、猪の肉を売りに出てをる者だが」
「なる程、こやつは肉売だ。何で今頃、寝呆けて関門へやつて来たのか」
「用が遅れて、関門の時刻までに、帰りそびれてしまつたのだ。開けてくれ」
「正気か」
「酔うてはゐない」
「はゝゝ。こいつ酔つぱらってゐるに違ひない。三べんまはつてお辞儀をしろ」
「何」
「三度ぐるりと廻(まは)つて、俺たちを三拝したら通してやる」
「そんな事はできぬが、このとほりお辞儀はする。さあ、開けてくれ」
「帰れ[帰れ]。何百遍頭を下げても、通すわけにはゆかん。市の軒下へでも寝て、あした通れ」
「あした通つていゝくらゐなら頼みはせん。通さぬとあれば、汝等(なんぢら)をふみ潰して、城壁を躍り越えてゆくがいゝか」
「こいつが……」と、呆れて、
「いくら酒の上にいたせ、よい程に引つ込まぬと、素ツ首を刎落(はねおと)すぞ」
「では、どうしても、通さぬといふか。おれに頭を下げさせて置きながら」
張飛は、そこらを見廻した。酔どれとは思ひながら、雲突くような巨漢(おほをとこ)だし、無気味な眼の光りに関(かま)はずにゐると、づか[づか]と歩み出して、城壁の下に立ち、役人以外は登る事を厳禁している鉄梯子(かなばしご)へ片足をかけた。
「こらつ。どこへ行く」
ひとりは、張飛の腰の紐帯をつかんだ。他の関門兵は、槍を揃へて向けた。
張飛は、髯の中から、白い歯を見せて、人馴(な)つこい笑ひ方をした。
「いゝぢやないか。野暮を云はんでも……」
そして携へてゐる猪(ゐのこ)の肉の片股(かたもも)と、肉切庖丁とを、彼等の目のまへに突出した。
「これをやらう。貴公等の身分では、滅多に肉も喰らへまい。これで寝酒でもやつたはうが、俺に撲(なぐ)り殺されるより遙(はるか)にましぢやらうが」
「こいつが、云はしておけば——」
又一人、組みついた。
張飛は、猪の股を振上げて、突出して来る槍を束にして払ひ落した。そして自分の腰と首に組みついてゐる二人の兵は、蠅でもたかつてゐるやうに、その儘(まま)振りのけもせず、二丈餘の鉄梯子を馳登つて行つた。
「や、やつ」
「狼藉者つ」
「関門破りだつ」
「出合へ。出合へつ」
狼狽して、わめき合ふ人影のうへに、城壁の上から、二箇の人間が飛んできた。勿論、投落された人間も血漿の粉(こ)になり、下になつた人間も、肉餅(ニクベイ)のように圧潰(おしつぶ)れた。
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次回 → 童学草舎(二)(2023年10月6日(金)18時配信)