第一回 → 黄巾賊(一)
前回はこちら → 橋畔風談(けうはんふうだん)(四)
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張飛は元より折角の名剣を泥池に捨てゝしまふのは本意ではないから、止められたのを幸(さいはひ)に、
「何か?」
と、わざと身を退(ひ)いて、劉備の言を待つものゝやうに見まもつた。
「まづ、お待ちなさい」
劉備は言葉しづかに、張飛の悲壮な顔いろを宥めて、
「真の勇者は慷慨せずといひます。また、大事は蟻の穴より漏るといふ喩(たとへ)もある。ゆる[ゆる]談(はな)すとしませう。然(しか)し、足下が偽物でない事はよく認めました。偉丈夫の心事を一時でも疑つた罪はゆるして下さい」
「おつ。……では」
「風にも耳、水にも眼、大事は路傍では語れません。けれど自分は何をつゝまう漢の中山靖王劉勝の後胤で、景帝の玄孫にあたるものです。……何をか好んで、沓(くつ)を作り蓆(むしろ)を織つて、黄荒の末季を心なしに見てをりませうや」
と、声は小さく語韻はさゝやく如くであつたが、凛たるものを裡(うち)に潜めて云ひ、そして莞爾(にこ)と笑つてみせた。
「豪傑。これ以上、もう多言は吐く必要はないでせう。折を見て又会ひませう。けふは市(いち)へ来た出先で、遅くなると母も案じますから——」
張飛は獅子首を突出して、嚙みつきさうな眼をした儘(まま)、いつ迄(まで)も無言だつた。これは感極まつた時にやる彼の癖なのである。それから軈(やが)て唸るような息を吐いて、大きな胸を反らしたと思ふと、
「さうだつたか!やはりこの張飛の眼には誤りはなかつた!いやいつか古塔の上から跳び降りて死んだ彼(あ)の老僧の云つた事が、今思ひあたる。……ウヽム、貴郎(あなた)は景帝の裔孫だつたのか。治乱興亡の長い星霜のあひだに、名門名族は泡沫(うたかた)のやうに消えてゆくが、血は一滴でも残されゝばどこかに伝はつてゆく。あゝ有難い。生きてゐたかひがあつた。今月今日、張飛は会ふべきお人に会つた」
独りしてさう呻いてゐたかと思ふと、彼は遽(にはか)に、石橋の石の上にひざまづき、剣を捧じて、劉備へ云つた。
「謹んで、剣は、尊手へお回(かへ)しします。これは元々、やつがれなどの身に佩くものではない。——が、但しです。貴郎はこの剣を受け取らるゝや否や。この剣を佩くからには、この剣と共に在る使命もあはせて佩かねばならぬが」
劉備は、手を伸ばした。
何か、厳かな姿だつた。
「享(う)けませう」
剣は、彼の手に回(かへ)つた。
張飛は、いく度も、拝姿の礼を、繰返して、
「では、そのうちに、きつと楼桑村へ、お訪ねして参るぞ」
「おゝ、いつでも」
劉備は、今まで佩いてゐた剣と佩き代へて、前の物は、張飛へ戻した。それは張飛に救はれた数年前に、取換へた物だつたからである。
「日が暮れかけて来ましたな。ぢやあ、いづれ又」
夕闇の中を、劉備は先に、足を早めて別れ去つた。風にふかれて行く水色の服は汚れてゐたが、剣は眼に見える黄昏(たそがれ)の万象の中で、何よりも異彩を放つて見えた。
「体に持つてゐる気品といふものは争へぬものだ。どこか貴公子の風がある」
張飛は見送りながら、独り虹橋(コウケウ)の上に暮れてゐたが、やがてわれに回(かへ)つた顔をして、
「さうだ、雲長にも聞かせて、早く歓ばしてやろう」
と、何処ともなく馳け出したが、劉備とちがつてこれは又、一陣の風が黒い物となつて飛んで行くやうだつた。
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次回 → 童学草舎(一)(2023年10月5日(木)18時配信)