第一回 → 黄巾賊(一)
前回はこちら → 橋畔風談(けうはんふうだん)(三)
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秋かぜが橋の下を吹く。
虹橋(コウケウ)の下には、枯蓮(かれはす)の葉がからから鳴つてゐた。
びらつと、色羽の征矢(そや)が飛んだと見えたのは、水を離れた翡翠(かはせみ)だつた。
「噓だつ」
張飛は、静な話し対手(あひて)へ、いきなり呶鳴(どな)つて、腰かけてゐた橋の石欄から突つ立つた。
「劉君。貴公は、本心を人に秘して、この張飛へも、深くつゝんで居られるな。いや、さうだ。張飛を御信用なさらぬのだ」
「本心?……私の本心は今云つた通りです。何を、貴郎(あなた)につゝむものか」
「然(しか)らば貴公は、今の天下を眺めて、何の感じも抱かれないのか」
「黄匪の害は見てゐますが、小さい貧屋に、ひとりの母さへ養ひかねてゐる身には」
「人は知らず、張飛にそんな事を仰有つても、張飛は貴郎を、凡(たゞ)の土民と見ることは出来ぬ。打明けて下さい。張飛も武士です。他言は断じて致さぬ漢(をとこ)です」
「困りましたな」
「どうしても」
「お答のしやうがありません」
「噫(あゝ)——」
憮然として、張飛は、黒漆の髯を秋かぜに吹かせてゐたが、何か、思ひ出したやうに、突然、佩いてゐる剣帯を解いて、
「お覚えがあるでせう」
と、鞘を握つて、劉備の面(おもて)へ、横ざまに突きつけて云つた。
「これはいつか、貴公から礼にと手前へ賜はつた剣です。又、私から所望した剣であつた。——だが不肖は、いつか尊公に再び巡り会つたら、この品は、お手許へ返さうと思つてゐた。なぜならば、これは張飛の如き匹夫が持つ剣ではないからだ」
「…………」
「血しぶく戦場で、——又、戦に敗れて落ち行く草枕の寝覚めに——幾たびとなく拙者はこの剣を抜き払つてみた。そして、そのたびに、拙者は剣の声を聞いた」
「…………」
「劉君、其許(そこもと)は聞いた事があるか、この剣の声を!」
「…………」
「一揮(イツキ)して、風を断てば、剣は啾々と泣くのだ。星衝(ほしつ)いて、剣把(ケンパ)から鋩子(バウシ)までを俯仰すれば、朧夜の雲とまがふ光の斑(ふ)は、みな剣の涙として拙者には見える」
「…………」
「いや、剣は、剣を持つ者へ訴へて云ふのだ。いつ迄(まで)、わが身を、為すなく室中に閉ぢこめて置くぞと。——劉備どの、噓と思はば、その耳に、剣の声を聞かさうか、剣の涙を見せようか」
「……あつ」
劉備も思はず石欄から腰を立てた。——止める間はなかつた。張飛は、剣を払つて、びゆつと、秋風を斬つた。正しく、剣の声が走つた。しかもその声は、劉備の腸(はらわた)を断つばかり胸をば搏(う)つた。
「君聞かず哉!」
張飛は、云ひながら、又も一振り二振りと、虚空に剣光を描(か)いて、
「何の声か。抑(そも)」
と、呼んだ。
そして猶(なほ)も、答へのない劉備を見ると、もどかしく思つたのか、橋の石欄へ片足を踏みかけて、枯蓮の池を望みながら独り云つた。
「可惜(あたら)、治国愛民の宝剣も、いかにせむ持つ人も無き末世とあつてはぜひもない。霊あらば剣も恕(ジヨ)せ。猪肉売(ゐのこうり)の浪人の腰にあるよりは、むしろ池中に葬つて——」
あなや、剣は、虹橋の下に投げ捨てられようとした。劉備は驚いて、走り寄るなり彼の腕を支へ、
「豪傑。待ち給へ」
と、呼んだ。
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次回 → 橋畔風談(けうはんふうだん)(五)(2023年10月4日(水)18時配信)