第一回 → 黄巾賊(一)
前回はこちら → 橋畔風談(けうはんふうだん)(二)
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「え?……私を以前から御存じの方ですつて」
「お忘れかな。はゝゝ」
偉丈夫は、肩をゆすぶつて、腮(あご)の黒い髯(ひげ)をしごいた。
「——無理もない。頰の刀傷で、容貌も少し変つた。それにこゝ三、四年はつぶさに浪人の辛酸を舐めたからなあ。貴公とお目にかかつた頃には、まだこの黒髯も蓄へてなかつた時ぢや」
さう云はれても、劉備はまだ思ひ出せなかつたが、ふと、偉丈夫の腰に佩いてゐる剣を見て、思はずあつと口をすべらせた。
「おゝ、恩人!思ひ出しました。貴郎(あなた)は数年前、私が黄河から涿県のはうへ帰つてくる途中、黄匪に囲まれて既に危ふかつた所を助けてくれた鴻家の浪士、張飛翼徳と仰有つたお方ではありませんか」
「さうだ」
張飛はいきなり腕をのばして、劉備の手を握りしめた。その手は鉄(くろがね)のやうで、劉備の掌(て)を握つて猶(なほ)、五指が餘つてゐた。
「よく覚えて居て下された。いかにもその折の張飛でござる。かくの如く、髯を蓄へ、容貌を変へてゐるのも、以来、志を得ずに、世の裏に潜んでをるが為です。——で実は、貴公に分るかどうか試してみたわけで、最前からの無礼はどうかゆるされい。」
偉丈夫に似あはず、礼には篤かつた。
すると劉備は、より以上、慇懃に云つた。
「豪傑。失礼はむしろ私のはうこそ咎めらる可(べ)きです。恩人の貴郎を見忘れるなどゝいふ事は、たとへ如何に当時とお変りになつてゐるにせよ、相済まない事です。どうか、劉備の罪はおゆるし下さい」
「やあ、御鄭重で恐れいる。ではまあ、お互ひとしておかう」
「時に、豪傑。あなたは今、この県城の市(いち)に住んでをるのですか」
「いや、話せば長い事になるが、いつかも打明け申した通り、どうかして黄巾賊に奪はれた主家の県城を取返さんものと、民間にかくれては兵を興(おこ)し、又、敗れては民間に隠れ、幾度(いくたび)も[幾度も]事を謀つたが、黄匪の勢力は旺(さかん)になるばかりで、近頃はもう矢も尽き刀も折れたといふ恰好です。……で先頃から、この涿県に流れてきて、山野の猪(ゐのこ)を狩つて肉を屠り、それを市にひさいで露命をつないで居るやうな状態です。おわらひ下さい。こゝの所、張飛も尾羽打枯らした態(テイ)たらくなので」
「さうですか。少しも知りませんでした。そんな事なら、なぜ楼桑村の私の家を訪ねてくれなかつたのですか」
「いや、いつかは一度、お目にかかりに参る心では居たが、その折には、ぜひ尊公に、うんと承知して貰ひたい事があるので——その準備がまだ此方(こつち)にできて居ないからだ」
「この劉備に、お頼みとは、一体何事ですか」
「劉君」
張飛は、鏡のやうな眼をした。らん[らん]とそのなかに胸中の炬火が燃えてゐるのを劉備は認めた。
「尊公は今日、市で県城の布令(ふれ)を読まれたであらう」
「うむ。あの高札ですか」
「あれを見て、何(ど)う思はれましたか。黄匪討伐の兵を募るといふ文を見て——」
「べつに、何(ど)うと云つて、何の感じもありません」
「無い?」
張飛は、斬りこむような語気で云つた。明らかに、激怒の血を、顔にうごかしてである。
けれど劉備は、
「はい。何も思ひません。なぜならば私には、ひとりの母がありますから。——従つて、兵隊に出ようとは思ひませんから」
水のやうに冷静に云つた。
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次回 → 橋畔風談(けうはんふうだん)(四)(2023年10月3日(火)18時配信)