第一回 → 黄巾賊(一)
前回はこちら → 橋畔風談(けうはんふうだん)(一)
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【前回迄の梗概】今から千七百七十年前、後漢の建寧元年のことである。涿県楼桑村の青年劉備は行商の途中黄河の畔で母への土産に大金を投じて茶を求めたが、その頃全国土に蝗の如く跳梁してゐた黄巾賊の一味に襲はれ、命の次に大切にしてゐた茶を奪はれた上寺の一室に監禁された。その劉備を救ひ出したのは寺の老僧であつた。老僧は劉備に自分の元にかくまつてゐた領主の娘芙蓉の一身を託して自殺して了つた。
厳しい族の追跡に遭ひ危く一命を落すばかりになつたところを突然賊の一味に化けてゐた県城の武士張飛に助けられた。お礼の印に伝家の宝刀を与へ芙蓉の一身を渡してやつと故里に戻つた劉備を驚かしたのは、苛斂誅求に会つて見るかげもない我家であつた。
偶々宝剣紛失に怒つた老母は、劉家の先祖は漢の景帝であるを告げると共に、家運復興をうながすのであつた。羊仙といふ老人も劉備の将来を暗示する謎の言葉を残して去つた。さうした或日、城内に出た劉備は黄巾賊討伐の募兵の布告文を目にした。その時高札を前に立去り兼ねてゐる彼に突然呼びかける者があつた。
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さつきから楊柳の下に腰かけて、路傍(みちばた)の酒売(さけうり)を対手(あひて)に、声高に話していた男のあつたことは、劉備も知つてゐた。
自分の容子を、横目ででも見てゐたのだらうか、二、三歩、高札から足を退けると、
「貴公、それを読んだか」
片手に、酒杯(さかづき)を持ち、片手に剣の把(つか)を握つて不意に起(た)つて来たのである。
楊柳の幹より大きな肩幅を、後ろ向(むき)に見てゐただけであつたが、立上がつたのを見ると、実に見上げるばかりの偉丈夫であつた。突然、山が立つたように見えた。
「……私ですか」
劉備はさらに改めて、其人を見直した。
「うむ。貴公より他に、もう誰も居ないぢやないか」
黒漆の髯(ひげ)の中で、牡丹のやうな口を開いて笑つた。
声も年頃も、劉備と幾つも違ふまいと思はれたが、偉丈夫は、髪から腮(あぎと)まで、隙間もないやうに艶艶しい髯を蓄へてゐた。
「——読みました」
劉備の答へは寡言だつた。
「どう読んだな、貴公は」
と、彼の問ひは深刻で、その眼は、烱々として鋭い。
「さあ?」
「まだ考へてをるのか。あんなに長い間、高札と睨み合つてゐながら」
「こゝで語るのを好みません」
「おもしろい」
偉丈夫は、酒売へ、銭と酒杯を渡して、づか[づか]と、劉備のそばへ寄つて来た。そして劉備の口真似しながら、
「ここで語るのを好みません……いや愉快だ。その言葉に、おれは真実を聴く。さ。何処へ行かう」
劉備は困ったが、
「とにかく歩きませう。こゝは人目の多い市(いち)ですから」
「よし歩かう」
偉丈夫は、闊歩した。劉備は並行してゆくのに骨が折れた。
「あの虹石橋(カウセキケウ)の辺はどうだ」
「よいでせう」
偉丈夫の指さす所は町端(はづ)れの楊柳の多い池の辺(ほとり)だつた。虹を架けたやうな石橋(セキケウ)がある。そこから先は廃苑であつた。何とかいふ学者が池を坑(ほ)つて、聖賢の学校を建てたが、時勢は聖賢の道と逆行するばかりで、真面目に通つてくる生徒はなかった。
学者は、それでも根気よく、石橋に立つて道を説いたが、市の住民や童(わらべ)は
(気狂(きちが)ひだ)
と、耳も借(か)さない。それのみか、小賢しい奴だと、石を投げる者もあつたりした。
学者は、いつのまにか、ほんとの狂人になつてしまつたとみえ、遂には、あらゆる事を絶叫して、学苑の中をさまよつてゐたが、そのうちに蓮池の中に、あはれな死体となつて泛(うか)び上つた。
さういふ遺蹟であつた。
「こゝはいゝ。掛け給へ」
偉丈夫は、虹橋(カウケウ)の石欄へ腰をかけ、劉備にもすゝめた。
劉備は、こゝ迄(まで)来る間に、偉丈夫の人物をほぼ観てゐた。そして
(この人間は偽物(ギブツ)でない)
と思つたので、こゝへ来た時は、彼もかなり落付(おちつき)と本気を示してゐた。
「時に、失礼ですが、尊名から先に承りたいものです。私はこゝから程遠くない楼桑村の住人で、劉備玄徳といふ者ですが」
すると偉丈夫は、いきなり劉備の肩を打つて
「好漢。それはもう聞いてをるぢやないか。此方(このはう)の名だつて、よく御承知のはずだが」
と、云つた。
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次回 → 橋畔風談(けうはんふうだん)(三)(2023年10月2日(月)18時配信)
(なお、日曜日については夕刊が休刊のため、配信はありません。)