第一回 → 黄巾賊(一)
前回はこちら → 桑の家(十)
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蟠桃河の水は紅くなつた。両岸の桃園は紅霞を曳(ひ)き、夜は眉のやうな月が香つた。
けれど、その水にも、詩を詠人を乗せた一艘の舟もないし、杖をひいて逍遙する雅人の影もなかつた。
「おつ母さん、行つて来ますよ」
「ああ、行つておいで」
「何か城内からお美味(いし)い物でも買つて来ませうかね」
劉備は、家を出た。
沓(くつ)や蓆(むしろ)をだいぶ納めてある城内の問屋へ行つて、価(あたひ)を取つて来る日だつた。
午(ひる)から出ても、用達(ようたし)をすまして陽(ひ)のあるうちに、楽に帰れる道程(みちのり)なので、劉備は驢にも騎(の)らなかつた。
いつか羊仙の置いて行つた山羊がよく馴れて、劉備の後に尾(つ)いて来るのを、母が後(うしろ)で呼び返してゐた。
城内は、埃(ほこり)ツぽい。
雨が久しくなかつたので、沓の裏がぽくぽくする。劉備は、問屋から銭を受け取つて、脂光りのしてゐる市(いち)の軒並を見て歩いてゐた。
蓮根の菓子があつた。劉備はそれを少し買ひ求めた。——けれど少し歩いてから、
「蓮根は、母の持病に悪いのぢやないか」
と、取換へに戻らうかと迷つてゐた。
がや[がや]と沢山な人が辻に集まつてゐる。いつもそこでは、野鴨の丸揚や餅など売つてゐる場所なので、その混雑かと思うてゐたが、ふと見ると、大勢の頭の上に、高々と、立札が見えてゐる。
「何だろ?」
彼も、好奇に駆(か)られて、人々のあひだから高札を仰いだ。
見ると——
遍(あまね)く天下に義勇の士を募る
といふ布告の文であつた。
黄巾の匪、諸州に蜂起してより、年々の害、鬼畜の毒、惨として蒼生に青田なし。
今にして、鬼賊を誅せずんば、天下知るべきのみ。
太守劉焉、遂に、子民の泣哭に奮つて討伐の天鼓を鳴らさんとす。故に、隠れたる草廬の君子、野に潜むの義人、旗下に参ぜよ。
欣然、各子の武勇に依つて、府に迎へん。
涿郡校尉鄒靖
「なんだね、これは」
「兵隊を募つているのさ」
「あゝ、兵隊か」
「どうだ、志願して行つて、一働きしては」
「おれなどはだめだ。武勇も何もない。ほかの能もないし」
「誰だつて、さう能のある者ばかり集まるものか。かう書かなくては、勇ましくないからだよ」
「なるほど」
「憎い黄匪めを討つんだ、槍の持方が分らないうちは、馬の飼糧(かひば)を刈つても軍(いくさ)の手伝ひになる。おれは行く」
ひとりが呟いて去ると、その呟きに決心を固めたやうに、二人去り、三人去り、皆、城門の役所のはうへ力のある足で急いで行つた。
「…………」
劉備は、時勢の跫音(あしおと)を聞いた。民心の赴く潮(うしお)を見た。
——が。蓮根の菓子を手に持つた儘(まま)、いつ迄(まで)も、考へてゐた。誰も居なくなる迄、高札と睨み合つて考へてゐた。
「……ああ」
気がついて、間がわるさうに、そこから離れかけた。すると、誰か、楊柳のうしろから、
「若人。待ち給へ」
と、呼んだ者があつた。
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次回 → 橋畔風談(けうはんふうだん)(二)(2023年9月30日(土)18時配信)