第一回 → 黄巾賊(一)
前回はこちら → 桑の家(九)
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誰か、のつそりと、無断で家の横から中庭へ這入つて来た。
劉備は、母と二人で、蓆を織つてゐた。無断と云つても、土塀は崩れたまゝだし、門はないし、通り抜けられても、咎めるわけにもゆかない程な家ではあったが——
「……おや?」
振向いた母子(おやこ)は目をみはつた。そこに立つた旅の老人よりも、酒瓶(さかがめ)を背にのせてゐる山羊の毛の雪白な美しさに、すぐ気を奪(と)られたのである。
「御精が出るなう」
老人は、馴々(なれ[なれ])しい。
蓆機(むしろばた)のそばに腰をおろし、何か話しかけたい顔だつた。
「お爺さん、何処から来なすつたね。たいそう毛のいゝ山羊だな」
いつ迄(まで)も黙つてゐるので、かへつて劉備から口を切つてやると、老人はさも[さも]何か感じたやうに、独りで首を振りながら云つた。
「息子さんかの。このお方は」
「はい」
と、母が答へると、
「よい子を生みなすつたな、わしの山羊も自慢だが、この息子には敵(かな)はない」
「お爺さんは、この山羊を曳(ひ)いて、城内の市へ売りに来なすつたのかね」
「なあに、この山羊は、売れない。誰にだつて、売れないさ。わしの息子だものな。わしの売物は酒ぢやよ。だが道中で悪漢(わるもの)に脅されて、酒は呑まれてしまうたから、瓶(かめ)は二つとも空いぽぢや。何もない。はゝゝゝ」
「では、折角遠くから来て、おかねにも換へられずに、帰るんですか」
「帰らうと思うて、こゝまで来たら、偉い物を見たよわしは」
「何ですか」
「お宅の桑の樹さ」
「ああ、あれですか」
「今まで、何千人、いや何万人となく、村を通る人々が、あの樹を見たらうが、誰も何とも云つた者はゐないかね」
「べつに……」
「さうかなあ」
「珍しい樹だ、桑でこんな大木はないとは、誰もみな云ひますが」
「ぢやあ、わしが告げよう。彼の樹は、霊木ぢや。此家から必ず貴人が生れる。重々(ちよう[ちよう])、車蓋のやうな枝が皆、さう云つてわしへ囁いた。……遠くない、この春、桑の葉が青々とつく頃になると、いゝ友達が訪ねて来るよ。蛟龍が雲を獲(え)たやうに、それから此家(ここ)の主(あるじ)はおそろしく身上(みのうへ)が変つて来る」
「お爺さんは、易者かね」
「わしは、魯の李定といふ者さ。というて年中飄々としてをるから、故郷(くに)にゐたためしはない。羊を曳(ひ)つぱつて、酒に酔うて、時時、市へ行くので、皆が羊仙(ヤウセン)と云つたりする」
「羊仙さま。ぢやあ世間の人は、あなたを仙人と思つてゐるので?」
「はゝゝゝ。迷惑なはなしさ。何しろけふは欣(うれ)しい人とはなし、珍しい霊木を見た。この子のおつ母さん」
「はい」
「この山羊を、お祝に献上しよう」
「えつ?」
「おそらく、この子は、自分の誕生日も、祝はれた事はあるまい。だが、今度は祝つてやんなさい。この瓶に酒を買ひ、この山羊を屠(ほふ)つて、血は神壇に捧げ、肉は羹(あつもの)に煮て」
初めは、戯れであらうと、半ば笑ひながら聞いてゐたところ、羊仙はほんとに羊を置いて、立ち去つてしまつた。
驚いて、桑の下まで馳け出し、往来を見まはしたが、もう姿は見えなかつた。
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次回 → 橋畔風談(けうはんふうだん)(一)(2023年9月29日(金)18時配信)