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連載第95回 → 乱兆(一)
(全14冊本第2巻「群星の巻」初回。昭和14年12月20日付掲載)
前回はこちら → 雷怯子(二)
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強(し)ひられる酒杯(さかづき)と、向けて来る話題に、玄徳は、無碍(ムゲ)にも座を立ちかねて、
「いや、最前あげた名は、世俗の聞(きゝ)およびを、申しあげてみた迄(まで)に過ぎません」
と、又つい、酌(さ)される一盞(イツサン)をうけてしまつた。
曹操は、矢つぎ早に、
「俗衆の論でもいゝ、袁紹、袁術のほかには、誰がもつぱら、当今の英雄と擬せられてゐるか」
「次には、荊州の劉表でせうか」
「劉表」
「威は九州を鎮めて、八俊と呼ばれ、領治にも見るべきものがあるとか、聞(きゝ)及んでゐますが」
「だめ、だめ。領治など、彼の部下のちよツぴり小(こ)悧巧(リカウ)なやつがやつてゐるに過ぎん。劉表の短所は、何といつても、酒色に溺れやすいことだ。呂布と共通なところがある。なんで時代の英雄たるを得よう」
「では、呉の孫策は」
「ムム、孫策か」
曹操は、笑ひ飛ばさなかつた。ちよつと、小首をかしげてゐる。
「丞相のお眼には、孫策をどう御覧になられてゐますか。彼は江東の領袖(リヤウシウ)、しかも弱冠、領民からも、小覇王とよばれて、信頼されてをるやうですが」
「いふに足るまい。奇略、一時の功を奏しても、元々、父の盛名といふ遺産をうけて立つた黄口(クワウコウ)の小児」
「では、益州の劉璋は」
「あんな者は、門を守る犬だ」
「——然(しか)らば、張繡、張魯(チヤウロ)、韓遂(カンスヰ)などの人々はいかゞですか。彼等もみな英雄とはいへませんか」
「あはゝゝ。無いものだな、まつたく」
手を拍(う)つて、曹操は〔あざ〕笑つた。
「それ等はみな碌々(ロク/\)たる小人のみで論ずるにも足らん。せめてもう少し、人間らしい恰好をしたのは居らんかね」
「もうその餘には、わたくしの聞(きゝ)及びはありません」
「情(なさけ)ないこと哉(かな)、それ英雄とは、大志を抱き、万計の妙を蔵し、行つて怯(ひる)まず、時潮におくれず、宇宙の気宇、天地の理を体得して、万民の指揮に臨むものでなければならん」
「今の世に、誰かよく、そんな資質を備へた人物がをりませう。無理なお求めです」
「いや、ある!」
曹操はいきなり指をもつて、玄徳の顔を指さし、又その指を返して、自分の鼻をさした。
「君と、予とだ」
「今、天下の英雄たり得るものは大言ではないが、予と足下(ソクカ)の二人しかあるまい」
そのことばも終らないうちであつた。
ぴかつ——と青白い雷(いな)光(びか)りが、ふたりの膝へ閃めいた、と思ふと、沛然たる大雨と共に、雷鳴がとどろいて、どこかの大木にかみなりが落ちたやうであつた。
「——あツ」
玄徳は、手にしてゐた箸(はし)を投げ、両耳をふさいで、席へ俯(う)つ伏してしまつた。
それは天地も裂けるやうな震動だつたにちがひないが、餘りな彼の顫(おのゝ)きに、席にゐあわせた美姫たちまで、
「ホ、ホ、ホ、ホ」
と、笑ひこけた。
曹操は、疑つた。しばし顔も上げないでゐる玄徳を、きびしい眼で見てゐた。しかし美姫たちまで嘲り笑つたので、思はず苦笑の口もとに歪(ゆが)め、
「どう召された。もう空は霽(は)れてゐるのに」
と、云つた。
玄徳は酒も醒め果てたやうに、
「あゝ驚きました。生来、雷鳴が大嫌ひなものですから」
「雷鳴は天地の声、どうしてそんなに怖いのか」
「わかりません。蟲のせゐでせう。幼少から雷鳴といふと、身をかくす所にいつもまごつきます」
「……ふゝむ」
曹操はたうとう自分の都合のよいやうに歓んだ。玄徳の人物もこの程度なら先(ま)づ世に無用な人と観てしまつたのである。……彼の遠謀とも知らずに。
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次回 → 雷怯子(四)(2024年12月20日(金)18時配信)